幼い頃、父親が買い与えてくれた沢山の児童向けの歴史小説…
その中でも「平家物語」は時間を忘れて、夢中で読んでいたっけ。
平家の栄枯盛衰に翻弄される人々が描かれ、特に「知将平知盛」という人物は、幼心に印象深く残った。
それから十数年が経ち…大人になった私は貴方に出逢いました。
御簾越しに差し込む朝日に目を細めながら、知盛は仄かに香る女の白粉と紅の匂いに眉をひそめた。
「知盛様、お目覚めになられましたか?」
すりよってくる女房に軽く舌打ちをしながら、気だるそうに躰を起こす。
女房は知盛の気を引くためか、ぺちゃくちゃと喋り続ける。
「見てくださいませ。昨夜の雨が嘘のように、今日はとてもよい天気でございます―っ」
御簾を上げる女房の手が止まる。
見ると前方の渡殿を、一人の女が歩いて来るのが見えた。
確か…という名だったか。
有川と同じく、「違う世界」とやらから来たという風変わりな女。
他の女房達とは異なり媚る事も無く、意思の強い光を持つ眼に興味をそそられた。
人当たりが良く、礼儀もわきまえているため、直ぐに屋敷の者達と馴染んだようだ。
…だが、女が俺に向ける視線は…俺を通りこして別の誰かを見ているかのようで―…
それを見る度に苛立ちを覚えた。
顔を上げたは此方に気が付いたのか、はたと足を止める。
知盛との視線が重なる―…
(ふんっ)
知盛は見せ付けるように、視線をに向けたまま、寄り添う女を口付けた。
「…!」
目の前の光景には驚き、目を開いたが直ぐに表情を戻して、無感情に言う。
「申し訳ありません。知盛殿の逢瀬をお邪魔してしまいましたね」
口元だけの作り笑いを浮かべ、 くるり と踵を返し彼女はその場から立ち去った。
「知盛様…」
甘ったるい声に一瞬忘れていた自分の側にいる女の存在を思い出す。
うっとりとした表情で、勘違いをしている女に不快感を覚え、衣に絡み付く女の指を無造作に払った。
「興が醒めた…消えろ」
「知盛さ、ま…?」
「聞こえ無かったのか?…消えろ」
低音の声で有無を言わせず、短く女に告げる。
「何て、酷い方…」
狼狽する女の目から涙が溢れ頬を伝った。
* * * *
「って知盛には厳しいよな」
稽古の休憩中、将臣が発した思いがけない言葉に目を丸くした。
「そうかなぁ?」
「特に目付き。厳しいと思うぜ?」
こんな感じ と、目尻を指で吊り上げ再現する。
「そんな顔はしてないって?!だってさぁ、油断したら喰われそうなんだもん」
「喰われるって…確かに手は早いと思うけどなぁ」
将臣には、いろいろと思い当たる事が有ったようで…苦笑いを浮かべながら頬を掻く。
「でしょ?将臣君みたいにそんな無茶はしない人だったら…もう少し優しくできるかな?」
「俺は安全圏かよ…」
何故か肩を落とす将臣に、あははと笑うは、姉が弟を思う様な優しい顔をしていた。
夕暮れ時――
知盛は渡殿でと出会せた。
「知盛殿…」
彼女の顔に一瞬浮かんだ、戸惑った表情に苛立つ。
(何故、そんな眼で見る?)
「来い」
隅に退けて、擦れ違って行こうとするの細い手首を掴むと、その華奢な躰を無理矢理壁に押し付けた。
「は、離してください」
は掴まれていない、自由な片手で力いっぱいの知盛の胸を押すが、ビクともしない。
「嫌だと言ったら?」
「それでも離して」
上目使いに強い光を放つ瞳で、真っ直ぐに知盛を見つめる。
「そんな顔をしても煽るだけだというのに…その眼と唇で俺を楽しませろよ…」
ゆっくりと顔を近付けると、互いの息がかかるほどの距離で囁く。
今、彼女の瞳に映るのは紛れも無い“自分”だけ。
「そう…その眼だ。その眼で、俺を、見ろよ…」
「なにっ…?」
手首と顎を抑え、反論の言葉を言わせない程に、深く口付ける。
…もっとも女を黙らせる手段など他に知らないが―…
「っ!」
唇に鈍い痛みが走り、の手首を掴む知盛の力が緩まる。
はその僅かな隙に、何とか壁際から抜け出した。
「クッ、やってくれるじゃないか…」
知盛は自身の唇から滴る血を ぺろり と舐めた。
獣を彷彿させるその仕草に、は怯む事無く睨みつけてやる。
唇に付いた知盛の血が、真っ赤な紅を引いたかの様にを彩っていた。
「ククッこれは…口付けだけでは、割に合わんな」
再び、知盛が伸ばした手を パシッ と払い、は怒りにまかせて言い放った。
「この節操無しっ!私を、その辺の女と一緒にしないでっ!!」
その声が、微かに震えていたのは怒りの為か―…
そのまま振り返る事もせず、バタバタ と走り去って行った。
「全く、面倒…だな」
走り去っていくの後ろ姿を見ながら漏れた呟き。
それが何を意図するものか…自分自信も理解できなかった。
* * * *
「……はぁ。やっちゃった…」
あのまま屋敷を飛び出してきたは一人頭を抱えていた。
でも、先程のは本当に腹が立ったから咄嗟にやってしまった。
(ああする事で、私が、女が堕ちると思っているのか?)
そうならば、
(何て、可哀想な男…)
口元を乱暴な仕草でで拭う。
口の中に広がるのは、噛み切った唇から溢れた彼の血の味。
(私に口付けたその唇で、他の女にも同じ事をしているんだ)
そう思うと…心がザワザワと乱れた―…
幼い頃に抱いた、歴史小説の中の彼に対する憧れと、今抱いているこの気持ちは違うのだろう。
だからこそ私は踏み止まる。
境界線を越える事はできない。
それを越えてしまえばきっと…苦しくて、切なくて堪らない。
…嫉妬という名の想いに自分を保てなくなるから―…
(終)
どこかの時空での二人。