幼い頃、母が自分の許から離れてしまった父親を想って泣き暮れていたのを見て育ったためか、
昔から恋愛など面倒だと思っていた。
今の主に遣えるようになってから、文をくれる方や声をかけてくれる方はいるけれど…
他の女房連中みたく心からから誰かに恋慕したり憧れを抱くできなくて、いつも書くのはお断りの返事ばかり。
しかし、今彼女を悩ませているのは面倒だと思っていた色恋沙汰。
はぁ…と溜め息と共に軽い頭痛がして頭を抱えた。
「厄介な相手に捕まってしまったなぁ…」
“厄介な相手”とは現在の元に足しげく通ってくる公達の事。
地位のある方に通って頂けるのはとても名誉な事なのだろうが、にとっては迷惑以外の何物でも無い。
まったく、彼との出会いは最悪だったのに…まさかこんな事になろうとは思いもよらなかった。
思い起こせば2月前―…
月が輝く夜更け…床に就く前に白湯を飲みすぎたせいか、は目を覚ました。
(もうすぐ満月かぁ)
厠からの帰り、そんな事を考えながら歩いていると…
「…?」
微かに何かが聞こえた。
(ま、まさか族!?)
嫌な予感を感じつつ、聞こえてきた方へ足を運んだ。
だが、後にはこの行動を後悔する事になる。
「はあっ、ぁあ…」
「っ!?」
声の元である一室に差し掛かり、は絶句する。
御簾越しにかいま見えた室内には…衣を乱しながら絡み合う男女の姿。
いったい室内がどんな状況になっているのか、解らないほど自分は幼くは無い。
「…っ…」
室内から漂う艶めいた空気に軽く目眩を感じ、口元を片手で覆いながら足音を忍ばせ足早にその場を離れる。
視界の隅に一瞬だけ銀色が見えた気がしたが…は構ってなどいられなかった。
そのため気が付けなかった。
立ち去るの後ろ姿を鋭い紫紺の瞳が見送っていた事を…
が衝撃的な光景を目撃してしまった翌日…
「??騒がしいな。何だろう?」
朝早くから何時も通り仕事をこなしていると、襖の向こう側から女房達の黄色い悲鳴が聞こえきた。
慎ましい(体面は)女房達が騒がしいだなんて珍しい。
「誰かいらしたのかな?」
「そうみたいね」
開け広げたから覗くと、外廊下を数人の女房を引き連れて?
銀髪と紫紺の瞳の見目麗しい青年が此方へやって来るのが見えた。
「あの方は確か…」
目立つ容姿の持ち主は…確か平氏の…平 知盛様?
今をときめく新中納言様。
会ったことは無かったが噂では聞いた事はあった。
だが、自分には遠い世界の方だと思っていたから…まさかお会いする事があるなんて驚きだ。
何故此処に居るのだろう?
そんな事を考えていて、身を隠すのを忘れてしまった。
「知盛様っ」
甘えた声を上げ、側に寄ろうとする女房を銀髪の青年は鋭い視線で一蔑した。
そして、
「退け」
と冷たく言い放つ。
凍りつく表情の女房に目もくれず、知盛はの前まで歩み寄った。
「なっ…」
隣に立つ女房が息を飲む音が聞こえた。
より頭一つ分背が高いため、自然と見上げる形になる。
「新中納言様…私に何かご用ですか?」
知盛は問いには答えず、を頭の天辺から足の先まで眺めると、
「クッ…その瞳、確かにお前だ」
「はぁ?」
意味が分らずに首を傾げると、知盛は声のトーンを下げて言った。
「昨夜の事…覗き見とは全く良い趣味をしているな」
「っ!!」
(ま、さかっ)
聞いた瞬間、昨夜御簾越しに見た光景を思い出して、の顔は一気に耳まで赤くなってしまった。
「べ、別に好きで覗いたわけではございません!!」
ブンブンと首を振り、必死で否定をする。
「頼まれても覗くもんですか!」
「新中納言様に何て口の聞方を…」と、周りから声が聞こえるが構ってはいられない。
だが、の態度に当の知盛は愉しそうにクツクツ笑う。
「ククッこの俺にそんな口を叩くとは…面白い」
の何がよかったのか分からないが、その日を境に知盛はのもとに足繁く通うようになった。
当初は他の女房達から嫉妬の視線を浴びせられ、妙な勘ぐりもされたのだが、
彼が夜半ではなく昼間に訪れることやとのやりとりを見ているうちに次第にそれも無くなっていった。
誰もが、当の自身でさえ「ただの戯れ、いつか飽きるだろう」と思っていたのだ。
「よう」
「げっ」
御簾を捲し上げ、現れた知盛を見て思わずは嫌そうな顔になる。
相変わらず無礼な態度にもかかわらず、知盛はクツリと愉しそうに喉を鳴らした。
「クッもう少し嬉しそうな顔をしたらどうだ?」
「残念ながら、全く嬉しく無いのでそんな顔はできません」
自分に臆すことも、媚びもせずにキッパリと言うに知盛はわざとらしい溜息を吐く。
「本当につれない女だな。大概の女は俺が通ってくるのを待ち焦がれるというのに」
「それじゃあ、恋い焦がれる女性の元へ行ってくれませんか?仕事中に来られるとはっきり言って迷惑なんですけど」
こんな風に来られても特に嬉しいわけでもないし、ただ迷惑なだけ。
このときはそう、殿方を恋い焦がれるだなんて・・・自分には絶対あり得ないと思っていた。
「クッ…ならば夜半に訪れた方が良かったか?」
「じょ、冗談じゃありません!!からかうつもりなら、早くお帰りください」
顔を真っ赤に染めながら慌てて、知盛の背中をグイグイ押して部屋から追い出そうとするに、
知盛はニヤリと笑うとおもむろに懐から可愛らしい包みを出す。
「残念だなぁ…今日は珍しい唐菓子を持ってきたのだが…」
「唐菓子っ?!いただきますっ」
打って変わり、瞳を輝かせて包みを持つ腕を掴むの変わり身の早さに知盛は声を上げて笑う。
「クククッお前は本当に面白い女だな…」
一頻り笑うと知盛は、ほくほくと満面の笑みで菓子を食べるに近づき、隣に座る。
そして彼女の背中を流れる黒髪を指に絡めながら目を細めた。
その様子は彼を知る者ならば驚き、目を丸くするくらい穏やかなものだった…