2.a state of emergency.(1)
扉を開けた途端に広がる部屋は、ガーデンでの宿舎では考えられないくらいの広さで淡いピンク色の壁紙が可愛いらしく上品な印象を与える。仄かに香るのは花の香り。
毛足がふかふかで土足のまま歩くのが申し訳ないくらい上質な絨毯が敷かれていた。
さり気なく配置されているのはアンティーク調の家具、白の革張りソファーに薄型大画面テレビ。
隣接した部屋はどこぞの姫君が使用していそうな天蓋付きのクイーンサイズのベッド、浴室は大人が三人くらい余裕で入れるジャグジー付きの広々としたお風呂…
「すげー…」
つい2時間前は薄暗い倉庫に居たというのに、自分の環境のえらい変わりようにの目はどんどんまん丸になっていく。
自分を部屋まで案内してくれた青年には悪いが、あまりにも自分とは無縁すぎる部屋に怖くなって部屋から飛び出したくなった。
2.a state of emergency.
(働かざる者食うべからず)
「今回ばかりは駄目だと思っていたんだ、本当に助かった」
不可抗力で繋いでいた手を離すと青年は後ろにいるを振り返る。
先ほど居たのは薄暗い倉庫だったためわからなかったが、街頭が照らす明るい場所に出て改めて青年を見ては僅かばかり驚いた。
ラフなシャツとジーンズは埃と煤で汚れてしまったけど、淡い金髪に意志の強い青い瞳にさらりと顔に落ちた前髪、青年はとても綺麗な顔立ちをしていたから。
ずっと青年だと思っていたけど、彼は自分と同じくらいの年齢かもしれないな、と考えたところで我に返った。
「えっと、怪我はありませんか?」
「君が助けてくれたから大丈夫だ。だが、君に怪我させてしまったな…」
申し訳なさそうに青年は眉間に皺を寄せる。
「こんなの怪我のうちに入りませんよ」
何て言ってみたものの、ナイフで襲われた時に出来た細かい切り傷は血が滲む程度だったが地味に痛かったりする。
「私はルーファウス。君は…君の名前を教えてくれないか?」
青年、ルーファウスは目にかかる前髪を指で掻き分けながら微笑んだ。
輝く王子スマイルに目がチカチカしてきて、は目を瞬かせた。
「えっと、私はっていいます。あの、ルーフウァスさんは何で…いや、どうして誘拐されたのか聞いてもいいですか?」
「ああ、それは…私の父親がミッドガルドでも屈指の会社の社長だから、かな」
「えっ!ルーファウスさんはお金持ちの御曹司なんですか?じゃあ身の代金目当ての誘拐だったの?」
屈指の社長ということは御曹司、そういえば若者な服装をしているのに彼からは育ちの良さを感じる。
ガーデン生徒の自分とは全く違う立場の人に出会うなどほとんど無かったから、つい一歩身を退いて彼を見てしまった。
無意識に身を退たの反応にルーファウスの表情が曇る。
「身の代金か…こんなことはよくある事だ。私を誘拐したとしても、あの男が動くとは限らないのにな。私で父親を揺さぶる事が出来るだろうなんて愚かな考えだよ」
「よくある事って…愚かって…」
自分が望んで息子になったわけじゃないのに、社長の息子だからって何度も誘拐されたら、何度も命の危険にあわされたら堪ったものじゃないだろうに。
瞼を半分伏せるルーファウスがとても寂しそうに見えて思わず唇を結んだ。
「駄目ですっ下手したら死んじゃうのに、慣れちゃ駄目ですよ!それにお父さんもルーファウスさんのことを心配してますって!」
声を荒げるにルーファウスの青い瞳が丸くなる。
「慣れちゃダメか…そうだな」
「当たり前です」
「今回ばかりは無事ではいられないと、覚悟していたんだ。だが君のおかげで助かることが出来た。を危険な目にあわせた詫びに何か礼をしたいのだが…」
誘拐犯達からルーファウスを助けたのは、心配だったのもあるが彼を見捨てたらこの後後悔しそうだから、という自分の為も含まれていたから少しだけ胸が痛くなった。
しかし「礼をしたい」という彼の気持ちは純粋に嬉しい。
「じゃあ…」
彼は、ミッドガルドに来て初めて好意的に接してくれた同年代の人。
繋いだ手から感じたのは、教会で目を覚ましてから久しぶりに感じた他人の温かさだった。こんな事を言ったら呆れられるかもしれないが、彼は地位も財力もありそうだから、この機会を逃すわけにはいかない。
ルーファウスさんごめんなさい、とは心の中で手を合わせた。
「すごく厚かましいお願いですが…今夜一晩泊めてくれませんか?」
「は?」
予想外の依頼内容にルーファウスは素っ頓狂な声をあげる。
「私…ちょっと訳ありみたいで、家に帰ることが出来ないんです。此処では知り合いも居ないしお金も無い。だからといって犯罪はしたくないし、一応女の子なんで一人で野宿もまずいかなぁって思って」
が現在の自分の状況を素直に伝えると、ルーファウスは少し考えた後に「そうだな」と頷く。
の頼みに頷いてくれたルーファウスだったが、直ぐに悪戯を思い付いた子どものように表情を緩めた。
「ただし、条件がある。今だけでも私に対して敬語を使わないでくれないか?…は自然体で話した方が可愛いから」
「あ、はいっと、うん…えっ?」
頷いた後、ふと考える。
あれ、何を言われたんだ?聞き間違えじゃなきゃ“可愛い”と言われたような…?
理解すると一気に頬が熱を持つ。
「ははっは面白いな」
からかわれた、とわかっても恥ずかしさからの顔はさらに赤くなっていった。
スラムから上部プレートへ移動した後、プレートを結ぶ鉄道に乗り込んだのだが…
がIDを持って無くてもルーファスと一緒だとIDチェックはパスだし、鉄道の乗務員に案内されたのは要人が乗るであろう座席はフカフカで居心地の良い個室。
飲み物も出てくるし完璧VIP扱い、どんだけ彼はお坊ちゃまなんだと思いつつもプレートの中心部へたどり着いた。
そして冒頭に戻る。
ルーファウスの父親が経営している会社の系列だというホテルに連れて来られ、「ゆっくり休んでほしい」とルーファウスには言われたが、ふかふかのベッドは今まで寝ていたベッドとは全く違い落ち着かない。
色々あったせいか体は疲れているはずなのに目が冴えて寝付くことは出来ない。
「……」
広い部屋に居るのは自分だけ。
聞こえてくるのは自分の息遣いだけなのに耳にこびり付いて消えてくれないのは、誘拐犯達の断末魔の悲鳴、瞼を閉じれば炎に焼かれる彼等の苦悶の表情が浮かぶ。
「私、」
移動している間はなるべく考えないようにしていた。
認めたく無かった。
認めてしまったらその場に崩れ落ちて脚が動かなくなってしまう。
「私…初めて人を、殺した」
考えないようにしても、それは紛れもない事実。
胸の中に閉じ込めていた事実を言葉にすると、喉の奥から出すと瞳から止めどなく涙が溢れ出てきて…はゆっくりと瞼を閉じた。