震える指で本屋で買った世界地図を広げる。
…何度見ても、逆さまに見ても、これは違う。
いくら地理が苦手な自分でもこの世界の地図が見知ってるものと違う事はわかる。
「この世界には、日本は無いの?」
公衆電話を見付けて、自宅に電話をかけてみたが…何度かけても繋がる事は無かった。
店に置いてある品物や食べ物、生活様式は日本とあまり変わらないよう。
しかし何故か読めるが、此処で使われているのは不思議な記号なような文字。
通貨の単位は円でもドルでもユーロでも無い、ジェニー。
これって、もしかして…
いやいや、もしかしなくても…
「巷で噂の異世界っやつですか…?」
せっかく整えた髪が乱れるのに、がしがしと頭を掻いた。
「!?」
暫くの間うずくまっていただが、頭の先から爪先まで舐めるような粘着く視線を感じて顔を上げた。
階段を下りきった先でをジッと見ていたのは一人の男。
オーダーメイドとわかる仕立ての良いグレーのスーツを着こなし、値段の高そうなメガネをかけている一見すると品の良い貴公子。
男は金髪、長身で整った顔をしているのだから大抵の女の子だったら、素敵な男性にこんなに熱く見つめられたらときめいてしまうだろう。
だが男の瞳は鋭い光を帯び、を文字通り観察していたからだ。
「…誰ですか?」
声に微かな警戒心を滲ませながら問うと、男は口元に薄い笑みを造りゆっくりとに近づく。
なんだか胡散臭い。今すぐ逃げるべきか、男と話をするべきか…
立ち上がり、判断に迷っていると男はすぐ側までやって来た。
「やあ、こんにちは。ジロジロ見てしまって悪かった。…私はこういう者でね」
男は慣れた手つきでジャケットのポケットから名刺を取り出すと、に手渡す。
《アルフォートプロダクション社長 ラウツ=アルフォート》
受け取った名刺にはそう書かれていた。
「で、社長さんが…私に何の用ですか?」
そもそもプロダクションって何よ?は姉から「怪しい男は絶対に信用するな」と言われ続けていたのだ。
思いっ切り警戒してしまう。
その反応は予想外だったのだろう。ラウツ社長は首を傾げた。
「あれ?若い娘さんなのに、うちの会社を知らないの?」
「いや、名前は聞いた事はありますが…私世間に疎いもので…」
「知らないです」と言いたいところだが、世間知らず丸出しは恥ずかしかったため誤魔化す。
「ふぅん?では、我が社について彼に説明してもらおう」
意味が解らず口をポカンと開けていると、後ろから声をかけられた。
「よぉ、こんにちはお嬢さん」
振り返ると、そこに居たのは昨日絡んできた柄の悪いオヤジ。
額や腕に包帯を巻き、左腕は首から三角巾で釣ってはいるがそれがオヤジの迫力を増加させていて、はその場から逃げ出したくなった。
「お嬢さんには昨日の落とし前をつけてもらいたいんだが」
「…此処で、ですか?」
いくら血の気の多いオヤジでも、真っ昼間にこんな人が多い場所で何物騒な発言をするんだ。
「はははは、ヤス、確かにお前が言ったように興味深いお嬢さんだな」
「はい、彼女ならのあちらの意向に沿うかと…」
何がおかしいのか、笑い出すラウツ社長。
話が見えないで眉を顰めるに、ヤスと呼ばれた男が事情を説明をする。
アルフォートプロダクションは大手モデル事務所で、ヤスはスカウトマン…とてもじゃないがそうは見えない。
絶対、職業選択を間違っていると思う。
昨日に声をかけたのはスカウトのためらしい。
実は他プロダクションと競り、ようやく取り付けた有名ブランドの新作化粧品広告の仕事に起用する予定のモデルが、不慮の事故に遭ってしまい代わりのモデルを探していたという。
「このままではせっかくの大仕事をキャンセルしかねない。それは我が社にとって、金銭面信用面で大きな損失でね。それで君をスカウトしたいのだけど、どう?モデルにならない?」
「えっと、損失って言われても…そんなこと私には関係ないですよ」
「コンビニ寄ってかない?」ぐらいの軽いノリで言うラウツ社長に、少しだけ苛つく。
いきなりモデルにスカウトされてもはっきり言って興味は無いし。
「いや関係ある。昨日、俺にこんな怪我を負わせただろ?一緒に居たヤツは只今入院中でね。アイツもなかなか売れているモデルなんだよ。暫く仕事が出来ないという事は、会社にしたら痛手なんだ」
ビジネスの話を抜きにしても、自分が人を傷付けてしまった事は事実。
掌を握り締めると、昨日の人を殴る感触と骨が砕ける鈍い音が蘇ってきて唇を噛み締め俯いた。
「…わかりました」
俯きながらは微かに頷い。
「でも私なんか起用して、その気難しい方に何を言われても知りませんからね」
「いや…言わせない、というか言わないだろう」
妙な自信満々なラウツ社長と強面のヤスに、頭の中で「人を、特に男をそう簡単に信用すると痛い目をみるよ」姉から言われた言葉が響いていた。
黒塗りの車で要人のように護送され、は昨日からの急展開に疲れきっていた。
何故自分は此処に居るのだろう。今はもうゆっくり休みたい。
「…ところで君の名前を教えてくれない?」
思考の海に沈みそうになった意識が浮上する。
ああそうだった、今はモデルにならなきゃいけなかったんだ。
慌てて顔を上げるを見て、ラウツは苦笑する。
先程、遠くを見つめていた姿は妙齢の美しい女に見えたのに、今の反応と表情はまだあどけなさが残る少女にも見えた。実年齢は…聞かなくてもいいか。女は多少秘密を持っていた方が魅力的だ。
本当に不思議な女性。
だが、彼女はとんでもない宝石となるだろう。…逃すわけにはいかない。
「私は…じゃなかった、=です」
「ね。、何も心配しなくてこちらに任せていればいいから」
* * * *
予想に反して、連れて行かれたのは小綺麗なオフィスビルに入っているスタジオ。
スタジオ何て七五三の時以来で…プリクラを撮るのとは違う。
は正直緊張でガチガチになっていた。
直ぐに撮影が始まるのかと思っていたが、その前にいろいろと準備が必要とラウツに言われ、近くのホテルの一室を与えられた。
食事や服、化粧品など生活用品を全て用意してもらい、さらにエステで全身を磨かれてまさしく至れり尽くせり。
ただし、朝から深夜まで講師が付きっきりで歩き方や話し方、さらに表情トレーニング…
食事制限をされて、甘いもの禁止令が出た時には泣きそうになってしまった。
ああ…逃げたい。
プリティウーマンってこんな気分なのかな?
―1週間後―
「ラウツのお許しが出てやっとちゃんを撮れるわぁ!」
「はぁ、よろしくお願いします…」
ゴツイ体型なのに、妙にオネェっぽいカメラマンに困惑しながらもようやく撮影が始まった。
「ちゃん、視線はこっちぃ。堅い堅い!顎もう少し上げて〜」
「は、はいっ」
撮影は思いの外厳しく、朝から深夜まで及んだ。
表情やポーズなど細かく注文されて、引き受けたのは軽率だった…と後悔したがそんな事は後の祭りで。
「そうそう!いい感じるよぉ〜その表情とってもいいわぁ」
初めは独特の雰囲気に戸惑っていたも、次第に慣れてカメラマンの創り出す世界に引き込まれていった―…
* * * *
撮影も終わり、出来上がった写真を持ってきたヤスから「見るか」と聞かれたが丁重に断った。
写真映えしない顔を見るのは恥ずかしし、モデルの仕事はこれっきりにしたかったからだ。
「?」
眉を顰めながらはキョロキョロと辺りを見回す。
今日はようやく解放されたから情報収集のために街へ出たのだが…何故かいろんな方向から視線を感じる。
気のせいか…それとも自意識過剰になっているのか?
―だが、センター街に建つファッションビルの壁を見てその理由がわかった。
「げっ!?」
ああ、なんて事だろう。これじゃあ目立って当然だ。
先日撮影した写真が大きく引き伸ばされ、壁面に貼られていた。
そこに写っていたのは銀髪の美女。
背中のぱっくり空いた黒いドレスを身に纏って、手には新発売の口紅を持ち、臥せ目がちの赤い瞳、ボルドーの口紅が引かれた唇から少し覗いた赤い舌が艶めかしい。
「これ…この前撮ったの?こんなだったんだ。すごい…」
あの時、こんなに艶っぽい表情をしてたのか。
ポスターに写っているのが自分だなんてとても信じられ無い。
その後ファッション誌をはじめ、駅やブランド品を扱っている店にもポスターが貼られている事がわかった。
今まで平凡人生だったから、正直目立つのって怖い。
「でもさぁ…こんなにベタベタ貼られてたら…出歩けないよぉ」
戸惑いと恥ずかしさから、出歩く時には眼鏡をかけて歩こうと心に決めたのだった。
…To be continued.