05

“鏡”


そう、目の前にあるのは全身が映る大きな鏡。
ゴシック調の艶の抑えた金の縁取りがアンティークな印象を与える。

何処までも広がる真っ暗な空間には自分と鏡しか無い。
…いや。もう一人。

目の前に鏡に映る自分が居た。


これは、鏡に映る自分?鏡に触れればもう一人の彼女も同じく私に触れる。
絡み合う視線…
同じはずなのに、何かが違う。
あなたは誰?あたし、なの?
問いかけに鏡の中の彼女は微笑む。




コノセカイハカイテキカシラ?









* * * *








ミーンミンミンミン…


ただでさえ暑い夏。それなのに、一夏の短い盛りを惜しむように鳴き続ける蝉の声でさらに暑さが増す気がする。

ビルの間を吹き抜ける風は熱風となり、太陽からは焼ける熱射と紫外線が降り注ぐ。
一応花の17歳、美容が気になるお年頃。
…夏は苦手ではないが、紫外線対策をしなければならないからその点は嫌いだ。


しかし暑いな…

苛々しながら見上げた空は雲一つ無い何処までも広がる青空。
季節は新緑の季節からいつの間にか本格的な夏へと移り変わり…
この世界へ跳ばされて、早くも3ヵ月が過ぎようとしていた。




「ふぅ〜」

あまりの暑さには自動販売機で炭酸飲料を買って、日陰で一息ついた。
ペットボトル片手に、街路樹の隙間から射し込む木漏れ日に目を細める。
記憶にあるものとよく似た風景。
でも、此処は自分の知っている世界とは違う。


ああ、と思い出し腕時計を見ると、約束の時間まであと30分。
これなら歩いて行っても余裕で事務所に着けるだろう。
違う世界に迷い込んだ事に気付いてからというもの、元の世界に還る方法を模索したが有力な情報は見つからなかった。
還る方法どころか今自分がいる世界の事すらわかっていなかったのだから当たり前か。
最初は混乱し焦ってもいたが、基本的に楽天的な性格のため深く考えるのが苦手なは「貴重な体験だから楽しもう」と気持ちを切り替える事にした。

漫画やゲームでよくある異世界トリップは、最終的に主人公は元の世界に戻る事ができる。
だからいつかは還ることはできるはずだ。一方通行なんて有り得ないだろうから。きっと…
無理矢理、そう自分を納得させた。


つぅ―…

額から流れた汗が一筋、顎先に滑り落ちた。
手の甲で汗を拭おうとして、止まる。

(ああ、まただ)

こちらを探る複数の視線。一人、二人、三人…
その視線は鋭く、好意的なものとは思えない。

(この前みたいな人達かな?だったら、嫌だなぁ…)

三日前の夜、仕事帰りに怪しい黒ずくめの男数人に絡まれて攫われそうにたのだ。
…もちろん丁重にお断りしてお引き取りいただいたのだが。



つい最近、初仕事だった大手ブランド会社から新作香水宣伝の依頼がきたらしい。
ラウツ曰わくこの事では「シンデレラガール」として少し知名度が上がったらしいのだ。
少し顔が売れるとこんな事になるなんて。
ああ面倒だなぁ、思わず溜め息が出てくる。



「しょうがないか」

飲みきったペットボトルをゴミ箱に投げ入れ、早足で歩き出した。
視線の主達が追いかけてくる気配を感じてはペロリ舌を出す。

「昔から鬼ごっこは嫌いなんだよね。疲れるから」


ビルの角を曲がり相手から自分の姿が見えなくなると、は助走をつけてビルの壁を トントン と蹴り、三段跳びの要領でビルの屋上へ飛び上がった。
屋上から下を覗くと、目つきの悪い四人の男が曲がり角から飛び出てくる。
男達は、急に視界から消えたを暫くの間探して辺りをキョロキョロと見回していたが、一人が携帯電話を取り出し電話を始めると男達は四方へ散って行った。




「残念でした」

ペロッと舌を出して見送る。
まだ男達が彷徨いているやもしれないと思うと、屋上から下りる気がしない。

さて、どうしたものか…

とりあえず隣のビルに飛び移ると、下の気配を探りながら慎重に下りた。
以前だったらこんな場所に登れなかった。というか、登ろうなんて考えない。
ポン 軽い音をたてて、地面に下り立つ。チラリと腕時計で時刻を確認すると…


「うわっ走らなきゃ間に合わないやん」

慌てて全速力で走り出した。
…基礎体力が上がっていて本当に良かったと思う。


走り抜ける道は、なるべく人通りが少ない路地を選んだつもりだったが、すれ違う人は何事かと皆驚いた顔をしていた。









* * * *








ヨークシンの中心部、オフィス街に建つ事務所ビルには約束の時間ぎりぎりに着くことができた。


「涼しい…」

炎天下の下、走った事で全身の水分が沸騰しそう。
汗を拭きながらは、事務所の一角に置かれたソファーに座るとエアコンから流れる涼しい風に目を細めた。


「走ってきたの?」

冷えたオレンジジュースをトレイに乗せてやって来た、栗色の髪で人懐っこい笑顔をした担当マネージャーの女性 が顔を覗き込んでくる。
そんなに火照った顔をしているのかと頬に手を当てつつ、は出されたオレンジジュースを一気に煽り、喉を潤した。
ああ、生き返る。


「来る途中、変な人達に追いかけられてね。…上手く撒いたけど」

の答えに彼女は目を丸くする。が、彼女は少し天然だった。

「ディープな追っかけ?気をつけてね〜今そういう人が増えているらしいから。萌ってやつだっけ?そのうちのフィギュア作られちゃったりして〜」

「ちょっ、サラ止めてよ!フィギュアはさすがに気持ち悪いから…注目、なのかな?」

萌とか言われると、う〜んと唸ってしまう。
男達から向けられた視線の中に害意が含まれている気がしたんだけど。


「ただのマスコミ連中だったらいいんだが…気を付けろよ」

煙草の煙と共に横からかけられた声に顔を上げると悪人顔の男が睨んで、もとい心配そうな視線を送っていた。

「ヤスさん!事務所内は禁煙です!!」

タックルをかますサラを上手に避けながらそばに近寄るヤスに、一瞬顔をしかめてしまう。
数ヶ月足らずの付き合いだが、彼はいい人だとわかった。ただ、煙草の臭いが昔から苦手なのだ。

「一応、お前は女なんだしSPを付けた方がいいか?」

ヤスが言い終わる前に、は慌てて首を千切れるくらいブンブンと振る。

「い、いえ!まだ自分一人で対処できるので大丈夫です」

とてもじゃないが、SPは冗談じゃなかった。ずっと張り付かれるなんてプライバシーの侵害はされたく無い。
全身で拒否するにヤスは苦笑いを浮かべるが、ふと思い出して呟く。

「まぁ…ハンターライセンスを持っているくらいなんだし、一人でも何とかなるか?…だがなぁ」

「えぇえ〜!?そうなのちゃん!?人は見かけによらないっていうか〜」

にもやっと届くらいの呟きだったはずなのに、サラの耳はバッチリ聞こえたようだった。

「はぁそうみたいです」

「みたいって何よ?って実は強いのねぇ〜ねぇ何でハンターになったのぉ?」

そんな事を聞かれてもわからないし、いまいちハンターの仕事もよくわからない。ライセンスは気が付いたら持っていたからとしか答えられない。
以前、身分証代わりにライセンスカードを見せた時ヤスにも同じ事を尋ねられたが、曖昧に誤魔化した。

ほくほく顔で好奇心丸出しのサラはに詰め寄る。
は視線でヤスに助けを求めるが、彼は「ま、頑張れ」と一言残すと去って行ってしまった。
事務所を見回すが、社員は下を向き見ない振りを決め込む。

(こんの薄情者達めっ!)

悪態をついてやりたかったが、にはそんな度胸は無かった。