06

災厄は何時やってくるかはわからない。だから準備は必要なんです。


夏休み明け9月始めに行われる学校の避難訓練で、毎年繰り返し教師が言っていた台詞。
言われる度に、ああ準備は必要なのかーと思ったけれど結局は何も準備はしていなかったっけ。
今まさにそんな気分になっていた。


この日、仕事が長引いてしまい一人歩きは危ないという理由からタクシーに押し込められ、事務所で借りて貰った自宅マンションに着いたのはすでに深夜に近い時間になっていた。




ジャリ…


静かな住宅街には時間帯から人の姿は無い。はずなのに、はその気配を感じとっていた。
都会でも聞こえる虫の来声は聞こえない。張り詰めた空気の中、針で刺されたかのよう全身が痛い。
害意のある視線?いや、これは“殺気”






「…誰、ですか?」

住宅の住人がまだ起きているだろう部屋の窓からは明かりが漏れ、きれいに舗装された道には街頭も灯されている。
それでも前方に澱む闇を睨みは身構えた。







「ほぉ、俺の気配に気が付くとは。二流の奴らがかなわないわけだ」

闇の中から声とともに姿を現れしたのは黒衣の、神父のような服を纏った細身の男。
ひょろりと長い手足に痩けた頬、やたらと細長い男性のお笑いコンビを思い出した。
だが、ギラギラとした眼に宿る仄暗い光と身に纏う気配はお笑いコンビとは180度違う。

「…最近やたらと視線を感じると思ったら…萌えじゃなかったんですね」

萌え?大した動揺を見せないに男は怪訝そうに眉を動かす。

「私怨は無いが、あんたが邪魔な人間がいてな」


「…はいそうですか、って素直に聞くと思いますか?」

不敵に笑ってみるが、内心は動揺して滝の汗を流していた。
邪魔って、邪魔って何?身に覚えは……仕事関係?この世界での知り合いは数える程しかいない。
仕事関係でしか考えられないだろ。


「必死に抵抗してくれていいぜ?その綺麗な顔が苦痛に歪むのはさぞかしイイだろうからなぁ」

目元を歪ませて異様に赤い舌先でベロリ、と口の端を舐める男の仕草に背中が寒くなる。


―この男は普通じゃない。殺しを生業にしている人間だ―…

頭の中にその言葉が浮かんだ。



ジャリ、ジャリ…




まるで狩りを始めるように、愉しげな足取りで近づいてくる男。はガクガク震え出してしまいそうな膝を叱咤して身構えた。
少し…少しでも時間を稼げれば、異変に気が付いた人が警察に通報してくれるかもしれない。
相当強そうだが、油断している今なら倒すことが出来るかもしれない。
覚悟を決めて男を睨みつけた。
まずは…先手必勝!!
地を蹴り、一気に間合いを詰めると上段蹴りを仕掛けた。

「はぁっ!!」

完全に不意打ちを狙ったのに男は紙一重でかわす。
ピッ 男の頬にザックリと横一文字の傷が走る。かわされた事に思わず出る舌打ち。


「この女…!」


ドスドスドスッ


「あっぐぅ!?」

男の目が険しいものになったのに気付くと同時に、背中に強い衝撃が走り前方につんのめって倒れてしまった。
状況を理解する前に、襲いかかってくる焼けるような激痛で顔が歪む。


「なん、で?」

腕に力を入れ立ち上がろうとするが、灼けるような痛みが走り力が入らない。
後ろからナイフが飛んできた?いや、男は投げる動作はしていなかった。後方に他の者の気配など無かったはず…
それに背中に刃物が刺さっている感覚は無い。有るのは初めて味わう“激痛”



「悪い悪い。時間をかけてなぶってやろうかと思ったが、つい力が入っちまったか」

にこやかき言う男を、痛みを堪えるため唇を噛みしめながら睨みつけた。

「うっ…」

くらくらと目眩とともに、傷口が痺れ始める。何なんだこれは。


「ああそうだ、今の攻撃の中に神経を狂わす毒も仕込んどいたからそう苦しまずに逝けるぜ?」


げほり、

「ふざけんなっ」出そうとした声は、込み上げてくる吐き気と鉄錆の味をした液体のためにか細い呻きにしかならない。
息をするのも苦しくてヒューヒューと喉から漏れた。
全ての感覚が麻痺した背中から熱い物が流れ出すのがわかる。
同時に強制的に地面へと移された視界が赤一色に染まる。


背中があつい。痛い、痛い痛い痛い。
死、ぬ?あたしは…死ぬの?
いや……まだ死にたくない。


「いい顔だなぁ。綺麗なお嬢さんには悪いが仕事なんでなぁ」

いつの間にか側に近寄って来ていた男は無遠慮に覗き込んでくる。


あたしはここで死ぬの?
あの攻撃は何?
何故、反撃できなかった?あたしが弱いから?

指一本動かそうにも、身体は麻痺していてそれすらままならない。
地に倒れる自分の姿に苛立ち、下唇を噛む。


唯一自由になる視線を動かせば、に死が訪れるのを待っているのか、男はニタニタと厭らしい笑みを浮かべながら見下ろしていた。


この男は「一思いに死なせてやる」優しさすら無いのか。


ああ悔しい。
あの愉悦に浸る顔を…苦痛と絶望に歪ませてやりたい。


暗い闇が心を浸食していく。
神経毒が脳をも犯し始めたのだろう。
痛みすら麻痺し始めて、目の前が靄がかかってきた。
あと少しで呼吸すら危うくなるだろう。

すぐ其処まで近づいて来た“死”の影に初めて恐怖を感じた。


(嫌だ!まだ、死ねない!)


途切れそうになっていた意識を再び浮上させたのはその一念から。
だが、身体は相変わらず麻痺して指一本動かせない。



(また、鏡?)

焦りの中、ほとんど視力を失った視界に見えたのは最近夢に出てきた鏡だった。
鏡に映るのは地に転がるではなく、片膝をつき、小首を傾げる自分と瓜二つの彼女。
彼女は赤く色付いた蠱惑的な唇を開く。



《死ぬ…? ふふ、大丈夫こんな程度じゃあ死ぬことは無いわ…》


《…誰?》


同じ声のはずなのに、全く異なる二人の声が空間に響く。



《それに、こんな程度の輩に傷付けてられる何て…赦せない》


《そんなこと、言われても…どうしたらいいの?》


《…力の使い方をその体は知っているはず いや、忘れているのかしら?ならば…思い出さなければね》



《だって、あなたは……なんだから》


最後の方が聞き取れなかった言葉に眉を顰めた。


《ほら、起きて…?》









* * * *








ゆっくりと目の前に在った鏡が消えると、急激に霧が晴れたようにクリアになっていく視界。
同時に身体の痺れも治まっていた事に気付いた。

背中の痛みも動かせば鈍い痛みがあるものの、出血は止まっているようだ。
現在の状況を思い出し、素速く立ち上がると男が驚愕に息を呑むのがわかった。


「馬鹿な!?」


どういうことだ?、と男は呟きながらも間合いをとる。


「もうあなたの攻撃はくらわない」

男が放った力のカラクリは既にわかっていた。
前方にいる自分に相手の注意を向けさせ、神経毒を含ませた無数のナイフをの背後に出現させ攻撃したのだ。
仕掛けをわかってしまえば避けられる攻撃。


「くっ、死に損なったなら、再び眠らせてやろう!」

男の両手に黄緑のオーラ?が収束していく。と同時に、を取り囲み数十本ものナイフが出現した。
…今度はしっかり視える。
男を挑発するようにニッコリと微笑んでやる。


「死ね!!」

次々と襲いかかってくるナイフを器用に避け、男の背後に回り込んだ。
ポン、と肩に手を置く。


「あたし人殺しはしたくないの。…退いてくれませんか?」

「そんな事っ!」

「そう?ならば…ごめんなさい…」

否定ととった瞬間、肩に置いた手から力を送り込む。
彼という肉体を形成する細胞を壊すための力を。


「がぁ!?」

送り込んだ力に逆らえず細胞はネクローシスを始める。


痛みと苦しみを感じさせないように最初に脳を停止させ、次に心臓。
皮膚が波打ち、色素が浅黒く変色していく。
身体中の筋肉がブチブチと切れ、溶けながら骨が現れる。
眼窩からズルリと眼球が落ちると白髪となった髪がバサバサ抜け落ちた。

昔観たゾンビ映画のような光景だ…

自分がやった事なのに吐き気がこみ上げてくるが、は顔を背けなかった。
“自分”が初めて奪う命から目を逸らすわけにはいかない。

男の身体が灰へと変わって逝くまでの十数秒がやけに長く感じられた。






「私、人を殺しちゃった…」

その罪悪感より、淡々と事態を処理していく自分に対する嫌悪感から溜息を吐き、両手を見る。
何故かわからないが、ずっと前から使えていたはずのに元の世界では忘れてていた力。
いつから使えたのか?何故忘れていたのか?
そして…自分と瓜二つの姿をした彼女は誰なのだろう。
実は双子の姉だったとかってオチはないよな。


もういいや、ひたすら疲れた…とりあえずは…


「…シャワー浴びたい」



身体中に付いた砂と汗と血を早く洗い流したい。
はふらつきながら自宅へと歩き出した。





★ネクローシス⇒細胞の壊死。逆にアポトーシスとは細胞のプログラムされた自殺。


…To be continued.