5.腹ぐ……いえなんでもないですC

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後悔先に立たず。
物事が終わってからいくら後悔しても追いつかない。
物事を始める前にはよく考えて後悔しないようにせよ、と言うが、雰囲気に流され拒めなかったとはいえ風間千景とキスしてしまったのは事実で。


「初めてだったか?」

「ち、ちがうっ」

顔を真っ赤にしつつ首を横に振って否定すれば、それまで愉しそうに笑っていた風間の眉間には皺が寄る。
いくら男性経験が乏しいと言っても、キスくらいはしたことあるもの。
…小学校の時仲良かった男の子と今は亡き父親とだけど。

なんて思っていたら、今度は触れるなんて優しいものじゃなくて唇に噛み付くようにキスされた。
いつの間にか肩を抱かれて抱き締められているし。
これは夜だからまだ良かったけど、路上でいちゃいちゃちゅっちゅしているなんて羞恥心を忘れたバカップルだ。
この展開についていけないし恥ずかしいやらで足元がふらつくから、茹だった頭で風間にしがみつきながら何とか帰宅した。










キスなんぞしてしまった昨夜から風間の態度は一変した。


「ちょっ、近、近いってっ」


おはようの挨拶を交わした朝から不意打ちでくっ付いてくるもんだから、こちらとしたら堪ったものではない。
恥ずかしくて顔を合わせられないかもと、緊張していて損した。
文句を言っても風間は知らん顔だし。いや、知らん顔なんてもんじゃない?こっちの反応を楽しんでいる?


「手伝おうか?」

「け、結構ですっ」

玉ねぎを切っている時に、耳元で言われると指を切り落としそうになるから勘弁して欲しい。
昨夜から何かおかしい。風間が至近距離に居ると思うと動悸が激しくなってしまい、身体が火照って変になりそうだ。


「また指を切るなよ」

明らかに自分を意識しているに、風間は満足げに笑うとソファーに座って新聞を読み始めた。
意識の上では変化があったとしても、何時もと変わらない朝の光景の、筈だった。










『風間…何処に行ったのですか?』


「天霧…?」


唐突に聞き覚えのある、親しい男の声が聞こえて一気に周りの光景が色を無くした白黒の世界と化す。

次にやって来たのはソファーに座ったまま、全身を後方に引っ張られる感覚。
時計の秒針の音も、の朝食を作る音も消え失せて、耳にはゴウゴウと風が渦巻く音が聞こえるのみ。
このまま引き潮のような流れに抵抗すること無く呑まれれば元居た時空に戻るだろう。
しかし、この時の風間は素直に喜べなかった。


(まだ、戻れぬ)

そう思った時、身体を引きずり連れて行こうとする力が止んだ。











「風間さん?」



呼ばれて我に返った次の瞬間、目の前に飛び込んだのは心配そうに眉尻を下げているの顔だった。


「具合わるいの?大丈夫?」

先程は「近い」と文句を言ってきたくせに、ソファーに座って頭を抱えて考え込んでいるように見えて、心配して見に来たのだろう。
身を屈めて下から覗き込んでくるものだから、ずれた眼鏡越しの視線は誘うようにこちらを見上げていて、胸元が開いた服の隙間から胸の谷間が見えた。
…本人は無意識だろうが、彼女の姿は完璧誘っているようにしか見えない。
全く、これだから何時も無防備だと言っているのに、は何も気にしやしない。


「かざ、んっ!?」

返事の代わりにの後頭部を引き寄せて、反応が遅い彼女の唇を奪ってやった。
それは、チュッと音がしそうなくらいの挨拶代わりの軽い口づけだったが、の顔は一気に真っ赤になっていく。


「ななななっ…」

完全に不意打ちだったはパクパクと口を動かすだけがやっと。

「いきなり何するんですかー!?」

「貴様が無防備に俺の顔をのぞき込んでくるからだろう?」

くしゃりと髪を片手で混ぜてやれば彼女は子どものように唇を尖らす。


「だからってキ、キスすること無いじゃない…」

「口付けは初めてではなかろう。俺が口付けたくなったから、したまでよ」

「うう…俺様」

口でも勝てないと悟ったのか、はブツブツ文句を言いながらキッチンへと戻って行った。



「これがあの女が言っていた事か…」

先程の感覚で確信した。やはり月子が言ったように、この時空に居られる時間は余り残っていない。
元居た場所へ戻る事を望んでいたのに風間が素直に戻る事に頷け無いのは、きっと、あの無防備で鈍感で甘い女を欲しいと思ってしまったからだろうか。


「力ずくというのは気が引けるが、致し方ないか」


未だ真っ赤な顔をして料理を続けているは、彼が物騒な事を考えてい事をまだ知らないまま。








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