“今日で最後”
朝、出かける前からそんな予感はしていた。
だからと言って特別な事も無く、いたって普通の朝の時間を過ごして家を出てきた。
「っ…」
午前中最後の授業を終えて、友人二人と昼食を食べに講義室から食堂へと移動する途中…唐突に背中を強く押されたような衝撃を感じては一瞬息が詰まった。
この衝撃はシックスセンスが告げる予感。良いのか悪いのか、こういう予感は残念なことに何時も当たるのだ。
「顔色悪いよ?どうしたの?大丈夫?」
廊下の真ん中で立ち止まったに心配した友人が声をかける。
「…あのさ、急用を思い出したから帰るわ」
「え?午後の授業どうすんの?」
「今日は休むっ」
答えると同時には走り出していた。
友人達の驚いた声が後ろから聞こえたが、答えてる時間は無い。
急がなければ。もう会えなくなってしまう、それは確信めいた直感。
全速力で大学の校内を走り抜けてそのままの勢いで駅まで走り電車に飛び乗った。
普段と変わらない日だったら、小春日和の暖かさの中電車の振動に揺られて居眠りをしているだろうに今日はそんな心のゆとりは無く、早く降車駅に着いて家に帰りたいという思いで電車に乗っている時間がとても長く感じて、無意識に唇を噛んでいた。
降車駅に着いた後は人を押しのけてただ全速力で走る。
「ハァハァハァ…!」
脚の感覚がもうおかしい。
汗でずれる眼鏡は邪魔にしかならないから外してしまった。
筋肉が悲鳴をあげようが道行く人が何事かと視線を向けるが、構ってなどいられるか。
マンションに辿り着いた時、腕時計を見ると火事場の馬鹿力というやつか大学から自宅までの所要時間は最速記録を塗り替えていた。
倒れ込むように自宅のドアを開けて、「ただいま」と言う余裕も無く疲労でもつれる脚でリビングへ向かう。
「全く、騒々しいな」
リビングへの扉越しに聞こえた何時もと変わらない彼の声に、少しだけ落ち着きを取り戻せた。
ただいま風間さんとか、何か声をだそうにも息が切れてしまって喉の奥が乾いているからなかなか音として出てこない。
寄りかかりながら扉を開ければ、髪も服もぐちゃぐちゃに乱れたの姿に呆れたように苦笑いを浮かべた風間はソファーから立ち上がる。
「風間さん、その格好は…どうしたの?」
少し整ってきた息を吐きながら発した声は自分でも間の抜けた声で。
朝見た時は何時ものスエット姿だったはずの風間は、初めて会った時に着ていた着物と羽織り姿だったから。
腰には刀まで挿しているし、久々に袖を通してみただけでは無さそうだ。
「そろそろ幕引きのようだ。最後にお前の顔を見れたのは上出来、だな」
「幕引き…?」
うまく回らない頭では彼の言葉を理解出来ない。
耳鳴りと目眩がしてきてやっと幕引きという言葉の意味を理解出来た。
「そんな…もう?」
心臓がバクバクと早鐘を打つ。
どうしてこんなにも冷静でいられるのだろう?元の世界に戻れるから嬉しいのか?
引きつった顔になっているだろう自分とは対照的に無表情のままの風間は何を考えているのかが全く読めない。
そうこうしているうちに、少しずつ彼の周辺が揺れて歪んでいく。
このまま彼が消えてしまったら、こんな結末は、風間千景という鬼に振り回された3ヶ月間の濃い日々に比べたらあまりにも呆気ないじゃないか。
口付けやセクハラばっかしきたくせにこの男は気の利いた別れの言葉も言ってくれ無いのか。
頭の中が真っ白になって何を言ったらいいのか戸惑っているうちに、ついには風間の身体が歪み始める。
「風間さんっ!」
気付いたら叫んでいた。
理由も分からない必死な思いで手を伸ばしたのはどうしてだか自分でもわからない。
強く思ったのは、ただ消えて欲しくない、それだけ。
ソファーに躓いて体勢を崩してしまい自分の方へ倒れてくるに、何時もと変わらない不敵な笑みを浮かべたまま風間は彼女の手を握ると、強い力で胸の中へと引き寄せた。
「…!!」
白で統一された室内に炭を垂らしたように黒い何かが侵入してくる。
(気持ち悪いっ!)
グニャグニャ歪み渦を巻き始める空間に、一気に気持ちが悪くなって風間の胸に顔を埋めてしまった。
もう自分達が立っているのがリビングの床なのかすら分からない。
しがみつくを力強い腕が抱き締める。
それだけで安心感が生じるから不思議。
上を向いて少しだけ開いた瞼から見えた風間は、優しい笑みを浮かべているように見えた。