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寿永二(1183)年七月二十八日

平氏一門の都落ちの前夜、突然に御所から姿をくらましていた後白河法王は源氏の軍と共に京の都へ帰って来た。
源氏の白旗が都に入るのは二十数年ぶりのことであった。
同時に木曾義仲(源義仲)、源行家に平氏討伐の命が下された。
同年八月、西国へ下った平氏一門は筑前の国の太宰府辿り着いたという―…







「熊野へ?」

夕食時、お膳の上の煮物を取ろうとした箸が止まってしまった。
お母さんは ええ と頷き、話を続ける。

「私たちはね元々熊野の者なのよ。加奈とも話し合ったのだけど、物騒な京に居るよりは熊野に帰った方が安心かと思ってね」

「それに…奈々の事もあるし」

加奈は斜め前の円座を見て目を臥せる。
何時も其処に座っている奈々の姿は、今は無い。

「そうだね…」

まだ、望美達が京へ跳ばされるまで時間がある。
…それまで、出来ることならば京を離れていたかった。
気持ちの整理をつけたかったこともあるが、京にいる源氏や義仲の悪行に巻き込まれたくは無かったのだ。
熊野…そう聞いて真っ先に浮かんだのは、遙か3の八葉 天の朱雀ヒノエ君。
熊野に行けば彼に会えるだろうか?

熊野は、元の世界では世界遺産に登録されている場所。
ずっと一度行ってみたいと思っていたのだ。
観光をしに行くのでは無いけれど…熊野古道を歩いてみたいし、那智の大滝も見たい。


平安末期より、阿弥陀信仰が強まり浄土教が盛んになってくる中で、熊野は浄土と見なされるようになった。
歴代の上皇の参詣が頻繁に行われ、特に後白河院の参詣は三十回近くに及んでいるらしい。
上皇の度重なる参詣に伴い熊野街道が発展し、宿場町や街道沿いも整備されていったという。
達は被衣を着て市女笠をかぶった旅の装束に身を包み、紀伊路を歩きようやく熊野に入った。
宿場町に近付くにつれ、参詣の人々と宿屋の呼び込みの人で辺りは賑やかになっていく。
時間はちょうど日暮れ時。


「今日は此所で宿をとりましょう。知り合いが宿屋を営んでいるから、泊めてもらえると思うよ」

「よかった…」

お母さんの決定に、ホッと安堵の呟きを漏らしてしまった。

確かに山道も整備されていて歩き易かったが…なんせ連日、長距離の移動である。

大丈夫?」

「う〜ん、何とかね」

何度も心配して声をかけてくれる奈々に苦笑しながらは答える。
車も電車も無い時代の一般的な移動手段は歩きか馬のみ。

毎朝ジョギングを続けていたお陰で、何とか熊野まで歩き通すことができたけれど…
腰は痛いし、足は豆が潰れてかなり酷い状態になっていた。
こんな長い距離を歩くなんて…昔の人って本当に健脚だと思う。




「お姉さん方、宿は決まっているかい?」

一行が目的の宿に向かおうとした時、一人の客引きが声を掛けてきた。
赤銅色に日焼けして目付きの悪い、見るからにガラが悪そうな男。

「いえ、行きつけの宿が在りますのでお構いなく…」

やんわりと断り、行こうとする加奈の肩を男が掴んだ。

「きゃあっ」

「何をなさいますか!?」

お母さんと奈々が抗議の声を上げるが、男は無視をして厭らしい笑みを浮かべる。

「そんな事を言わずに、うちの宿においでよ。警備もしっかりとしているし、女ばかりでも安心して泊まれるよ」

慣れ慣れしく言い、ニヤニヤ笑った男の歯は黄色く汚れていて…生理的に受けつけなかった。
街道沿いで、人通りがあるはずなのに…
道行く人達には見て見ぬ振りをしていて、それが余計に腹が立ってくる。

「痛っ離してください!」


どんっ!

「うわっ」

加奈が肩を思いっきり押したため、男はよろめきながら数歩後ろに下がった。

「いってえなっ…何しやがる!…これは是非とも宿に来てもらわなきゃな」

お決まりな見事な三下悪役の台詞についには苦笑いを噛み潰した。
―でも、今は笑ってなどいられない。
男がその腕を振り上げた時、戦う事は自分だけしか出来ないのだから。
加奈をかばうように、は二人の間に入った。

「お待ちください…この様な振る舞いは、女性に対して乱暴ではありませんか?」

男を睨みつつも努めて頭は冷静に。抑えた口調で言う。

「な、何だとっ生意気な女だな」

その態度が余計に怒りを煽ったのか男の顔に青筋が浮かび、に向かって腕を振り上げる―…

(戦うしかない!?)

は腰に挿した護身用の小太刀の柄に手をかける。



「其処まで…これ以上の無礼を働くのなら、容赦はしないよ?」

「「!?」」

男の背後から、聞き覚えのある声がした。
―と同時に、男の動きがピタリと止まる。

先程とはうって変わり、脂汗を流して固まっている男の首には、短刀が当てられていたのだ。
漂う緊張感で、周囲から音が消えたように感じる中、ゴクリ と男の唾を飲み込む音が聞こえた。

「どうする?こんな大来で醜態を晒したいかい?このままおとなしく消えるなら、見逃してやってもいいけどね」

背後にいる少年の声色に、殺気を感じたのか男はコクコクと頷く。
頷いた時に刃先が当たったのか、首筋からうっすら血が滲んでいた。

「…わかったなら、行けよ」

少年が首筋から短刀を離す。

解放され、よろめきながら逃げるように男は走り去って行った。
後には、燃えるような赤い髪をした、綺麗な顔の少年が負敵な笑みを浮かべ立っていた。