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壮麗なる社が夕暮に紅く染まる…
回廊の高欄に背を預ける夕陽と同じ色をした髪の少年の側に、音も無く何者かの気配が現れた。

「何か動きがあったか?」

影に問う少年の口調は、何時もの飄飄としたものではなく命令する事に慣れたもので。

「…京の都では、源義仲の横暴ぶりについに源頼朝が弟、範頼、義経を義仲追討のため上洛させた模様…一方の平氏軍は、旧都福原に移り、一ノ谷に城郭を構えております」

「ふぅん…院のご機嫌取りのつもりか?頼朝は、平氏より先に義仲追討に動いた、というわけか」

視線はそのまま動かさず、少年は影に命ずる。

「引き続き双方の監視を続けろ」

「はっ」

声と影がスッと奥に下がると同時に、少年の側から気配が消えた。

熊野は中立の地…源氏と平氏の戦にはあまり関係無いが、いつ火の粉が飛んでくるとも限らない。
熊野を治める立場の自分は、いずれ決断を為なければならないだろう。

「源氏同士の戦…さて平氏はどう動くか、だな」


少年―…ヒノエは皮肉気な笑みを浮かべていた。








* * * *





戦とは無縁の人々にとって、『戦が始まるかもしれない』という危機感より、すぐ目の前にある新年を迎える準備の方が重要な問題である。
正月を迎える準備の為の品を買う為、勝浦の市には普段以上の客が溢れかえっていた。


「加奈、この衝立は何処に置くの?」

「ああ、それは隣の部屋にお願い」

歳末の頃になると、捻挫をしていた奈々の足もすっかり治り、母娘は正月準備やら掃除にと慌ただしい日を送っていた。
師走の月名の通りの忙しさに、現代っ子のは目が回りそうだ。
特に今日は朝からバタバタと走り回っている。


「奈々!また転ばない様に気を付けなさいよ?」

両手に荷を抱え、ふらつきながら走り回る奈々にお母さんが注意を促す。

「大丈夫!今日の宴は別当様の御招待だもの。絶対に転ばない!」

そう、今日は熊野本宮大社での宴に招かれていたのだ。

「なら、おとなしくしていなさい。また捻挫をしたら大変でしょう」

そう言いながらは、奈々が両手で抱え持っていた荷を奪い取る。
鍛練の結果、筋力と体力が大分付いたため、その重さはあまり苦にはならなかった。






―― 熊野本宮大社 ――


家都美御子大神を主神とし、熊野三山の一つに数えられている大社である。

始まりこそ厳かだった宴は、夜の戸張が落ちてくるにつれて賑やかなものになってゆく。
過ぎ行く年月を惜しみつつ酒を組交す人々。
白拍子装束の加奈と奈々二人の舞が宴に華を添える。
は賑やかな宴席から離れた廊に座して月を眺めていた。
宴席では、松明の明々とした灯りに照らされ宴の賑やかな音に溢れていたが、この場所は静かだった。

天には十六夜の月が光光と輝いて…

「天を仰いで、月の国に帰ってしまう気かい?…かぐやの姫君」

「…ヒノエ君?」

振り向くと其処には、予想どおりヒノエが立っていた。
その手に持つのは瓶子と盃。

「今宵は舞わないのかい?」

ヒノエの問いに困ったように肩をすくめる。
が此所に居た理由の一つに、舞を請われるのが煩わしかった、ということがあったためであるが。


「むさくるしい連中とでは酔えなくてね。それより、かぐやの姫の月に還るための羽衣を奪い取りに来たのさ」

つい、いつものように軽口を叩く。
これは既に性分というものか、しょうがないのだろう。
はぁー とは大袈裟に溜め息をついた。

「私はともかく、他の女の子にいつもそんなだと誤解されるよ?」

気を付けなさいよ?と、悪戯っぽく笑ってヒノエの衣の裾を突いてやる。
廊に置かれた瓶子と盃を手にして、瓶子を少し揺らすと、濁り酒特有の甘い香りが漂った。

「全く、未成年者に酒を飲ますなんて…本当は軽犯罪よね。この世界では関係無いだろうけど。でも10代のうちは特に、お酒の飲みすぎは体に良くないから程々にね」

現代での職業がらか、つい口煩く言いながらもヒノエに酌をする。


「はははっ、まったくには敵わないな」

いつもそうだ、ヒノエにとっては年上の女を相手にすることなど慣れているはずだった。
しかし、大抵の女が喜ぶ事をしたとしても、彼女にはどうも通用しないのだ。いつも上手にかわされて、それを逆手に取りヒノエを子ども扱いする。
まったく…手に入らない女は今までいなかったというのに。

「当たり前でしょ?私は守りが固いの。そう簡単にいかないよ?」

(また、か…)

時折どこか遠くを見つめ、寂しげに微笑むをヒノエは不意に抱き寄せたい衝動に駆られる。
だが、それはできなかった。
人当たりよく笑う彼女の奥底には、何人も踏み込むことを許さない壁がある気がして…
もしも、それを無視して土足で踏み込むような真似をしてしまったら…
彼女の何かが壊れてしまう。そんな危うさすら感じた。
いったい、彼女が何を拒絶しているのかはわからないが―…


ふとは真顔に戻り、中庭の池に浮かぶ月を見つめ目を伏せた。
色白の顔に、長い睫毛の影が落ちる。


「熊野はいいところだね。人も土地も信仰も。ふふ、居心地が良すぎてずっと、ここにいたくなってしまいそう…」

「いたいならずっと、いればいいさ。俺はを追い出すような真似はしない」

そっと、の手に自分の手を重ねてみる。
びくっ と小さく華奢な肩が揺れた。

「ありがとう…。本当に、ずっと、いれたらいいのに…」

下を向いたの声はいつもの強気なものでは無く…涙を堪えているように震えた弱弱しいものだった。


「ひととせは はかなき夢の心地して 暮れぬるけぞ 驚かれぬる、か…」


過ぎ行く歳月を想いつつ、新たなる年を迎える。
そして各々の運命が動き出すのだった―…


『ひととせは はかなき夢の心地して 暮れぬるけぞ 驚かれぬる』⇒前律師俊宗 千載集474番
「一年なんて、気が付くとあっという間に過ぎてしまうんだなあ」〓時が経つのは早くて、驚いてしまう。という意味。