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戦場に残されたのは、物言わぬ兵士達の屍。
そしてとヒノエのみ。
源氏軍が馬を走らせて生田へとやって来たのか、少し離れた所から馬の嘶きと響きに似た音が聞こえてくる。
「…」
振り向きの額と頬の切り傷を目にした瞬間、ヒノエは血相を変えた。
「…って、この傷はアイツに!?」
そのまま、押し倒そうな勢いでの両肩を掴む。
「あ、これは違うよ知盛殿じゃない。怨霊に……傷は大した事無いから、大丈夫だよ」
そう笑いかけると、ようやくヒノエは安堵の表情を浮かべた。
「はー…無事で良かった……遅くなって、ごめんな…」
傷口に触れないように、の頬をそっと撫でる。
血はすで止まっていたが、ざっくりと右頬に2本走る切り傷、額の擦過傷が白い肌を紅く染めて余計に痛々しい。
「血も止まっているし、本当に大丈夫だから心配しないで、ね?」
本人は大して気にしていないようだが、女の顔に傷なんて…貴族の姫ならば自害すらあり得る事。
いけ好かない叔父に頭を下げるのは嫌だが、弁慶か朔の治癒の力なら傷痕も残らず治すことができるかもしれない。
「…頼むから、もう無茶はしないでくれよ」
いや、もう彼女に無茶などさせない。きつく拳を握りしめた。
「ヒノエ君、心配かけてゴメ、ン…」
そこまで言うと緊張が抜けたのか、の体から力が抜けてガクッ、と膝から崩れ落ちそうになる。
「っ!」
とっさに伸ばされたヒノエの腕が傾ぐ体を支えるが、足に力が入らず自力では立てそうにない。
「…俺が側に居るから。もう、大丈夫だから…」
ヒノエは荒い息をしながら、自分の肩に額をくっつけるの背中と頭を何度も撫でてやった。
* * * *
「お前、誰だ」
疲労困憊で源氏の陣に戻ったを見て、開口一番に九郎が言った一言に思わずズッコケそうになった。
隣でヒノエが笑いを堪える気配がする。
「誰って…九郎さん、そんな言い方はヒドすぎます」
「そんなこと言われても…って、その声は、お前は…」
「さん?」
驚いた声を上げる望美に「そう」と頷く。
上目使いに見やると、何故か九郎は顔を赤らめ目を逸らした。
皆からの視線がいつもと違っていて、は困惑してしまう。
「みんなどうしたの?」
「ふふ、怒らないでください。皆、あなたの変わりように驚いているのですよ」
「弁慶さん…そう、何ですか?」
何が変わったのだろうか?
いまいち理解出来ずに首を傾げていると、譲が教えてくれた。
「さん、眼鏡はどうしたんですか?」
「あ、いやちょっと、眼鏡は不慮の事件で壊れてしまって…」
踏み潰された愛用眼鏡の事を思い出すと、今更ながら悲しくなってくる…
でも、眼鏡だけで印象はそんなにも変わるのかしら?
「それは災難だったね〜でも俺は無い方がいいと思うけど…」
「兄上!そんな言い方はに失礼ですよ」
「ご、ごめんね…」
朔に叱られた景時はオーバーリアクションで謝罪をする。
まるでコントのような兄妹の掛け合いに、はついクスクス笑ってしまった。
「傷は痛みませんか?」
問いながら弁慶はさり気なくの肩に手を置き、頬に触れる。
その行動に男性陣が複雑な視線を向けたが、当の本人は素知らぬ顔。
「は、はい、ありがとうございます」
「…しかし、素顔のあなたはこんなにも可愛らしかったなんて。ね、ヒノエ?」
チラリと意味ありげな視線を向けられ、ヒノエはぎりっと、弁慶を睨む。
「…余計な真似はするなよ」
「おやおや、何の事でしょうか」
すぐ横で静かな火花が散っていたがは気が付かなかった。
(私の本体の存在感って眼鏡以下だったんだ…)
「自分の存在感=眼鏡」その図式にしょんぼり落ち込んでいたのだった…