閑話
三草山の戦から10日程経った頃―…
戦の後始末やらも終わり、ようやく京邸も落ち着きを取り戻していた。
心身の疲労からしばしば熱を出すなど、体調を崩していたは朔の好意に甘えて暫くの間、京邸で過ごしていた。
白龍の神子である望美の近くに居るためか、身体の調子は大分戻ってきたが…ここ数日は余計な事ばかり考えてしまい、眠ることができない。
否、悪夢に魘される事が多くて眠りたく無いのだ。
時は深夜…厠からの帰り、あまりに月が綺麗でつい、薄絹の襦袢の上に上掛けを羽織ったままの姿でフラフラと廊下を歩いていた。
皆はもう寝てしまっているだろうから、軋む床の音が鳴らないようにそっと歩いて…
見上げた空には星の光が輝き、見事な満月が煌煌と浮かんでいる。
「綺麗、だけど…」
“怖い”そうは感じた。
今宵の満月はやけに赤味を帯びていて、その色は血を彷彿させる。
ならば見なければよいのに、見上げてしまうのは…月の魔力のためか。
「…?」
ぼんやりと月を見上げていたの耳に澄んだ音が聴こえた。
「これは…笛の音?」
(これは…敦盛君かな?)
キョロキョロと辺りを見回すが、彼の姿を探すが見当たらない。
ふと思いついて、敦盛の気配を探るため意識を集中してみる。
三草山の戦以降、理由はわからないが第六感というか気配を読み取る力が鋭くなっていたのだ。
望美や八葉は、普通の人より強い氣を放っている。
それに個々多少の違いがあるものの、特徴的なため探りやすいから直ぐに居場所がわかった。
「…上?」
首を傾げながら夜空を見上げるが敦盛の姿は見当たらない。見えるのは見事な月と邸の屋根だけ。
「敦盛君?」
まさかと思いつつ外廊下の柱に片手をつき、首を思いっきり伸ばして顔を上げながら屋根に向かって声をかけてみると…
「…殿?」
僅かな沈黙の後、敦盛の戸惑いを含んだ声が返ってきた。
「…そんな所でどうしたの?」
君は忍者ハッ●リ君ですか?こんな夜中に一人黄昏てるなんて、襲われても(私や他の八葉に)仕方がないぞっ!とツッコミを入れたかったが真面目な彼が困ってしまうだろうから止めた。
微妙な笑みを浮かべるに敦盛は律儀に答える。
「いや、寝付けずにいて…月が美しかったから……起こしてしまったのならすまない」
「ううん。ちょうど私も月が綺麗で見ていたところだったから…あ、降りて来なくてもいいよ」
下に降りようという素振りをみせた敦盛を止め、改めて彼を見上げた。
頭上に浮かぶ月に照らされた今は下ろしている長い髪はほんのり金がかり、女の自分が羨ましく思うくらい男性にしては肌理細かくて白い肌はやけに艶めかしいと感じる。下からじっと見つめていると、敦盛はほんのり頬を赤に染め、瞳に羞恥と戸惑いの色を浮かべた。
その仕草は…彼には悪いが男の子とは思えない可愛らしさだ。
(うわぁ、妙に色っぽい〜!…敦盛君に、触れたい。抱き締めたい)
…こんな邪な事を考えているなんて知ったら、自分を姉のように思ってくれているらしい彼はどんな顔をするのだろう?
少年と言える年代の男の子に食指を動かす何て、これじゃあ自分は美少年趣味の変態みたい。
性欲はあまり無い方だと思っていたが、女性のバイオリズムに影響すると言われる月の満ち欠けのせいなのか…
むくむくと湧き上がる願望。もとい、好奇心。
「…私もそっちに行っていいかな?」
そう告げ、欄干に足をかけて屋根の上によじ登ろとすると、さすがに敦盛は血相を変えた。
「なっ、危ない!?」
「貴女は女性なのだから無茶はあまりしないで欲しい」
「だってさ、屋根に登ってみたかったから」
体勢を崩しながらも、屋根の上によじ登ろとするを止めるため敦盛は下に降りる。
少し窘めるように言うと、は子供のようにペロリと舌を出す。
その仕草に一瞬、ドキリと敦盛の胸が跳ねた。…自分より年上の彼女は、時折こんな仕草を無意識にしてくれるのだ。
敦盛は視線を無理矢理上空の月へと向ける。
「…いや、この場でも十分月は美しいと思う」
「確かに。綺麗だね…」
頷きながら敦盛と同じように月を見上げる。だが、その声色に僅かな寂しさが混じっているの気が付いた。
月明かりに照らされた彼女の横顔。
白い肌に長い睫が影を落とし、少しだけ開いた唇はどこまでも甘く柔らかそうで……何故だかそれが儚げに思えた。
「ああ、でも…殿の方がずっと…」
そこまで言いかけて気が付く。自分は何を言おうとしているのだ。
「え、なに?」
「い、いや何でも無い」
ぱっとこちらを向くに、見つめていた事を誤魔化すため慌てて視線を逸らす。
…苦手だった。
いや、彼女自身が苦手というわけでは無い。むしろ自分は親しみやすい彼女に好意を持っているのだろう…と思う。ただ、その視線が苦手だった。
真っ直ぐで射抜くような強い視線。
見つめられていると、弱い自分の内面を見透かされている気分になってしまう。
「敦盛君ちょっとごめんね」
名を呼ばれて顔を上げると、すぐ目の前にはの顔。
思考の海に沈んでいたため、いきなりの事に飛び上がりそうになった。
「っ、殿!?」
「私の前で変に緊張しないのっ」
頬を赤く染め、ずりずりと腰を動かし少しづつ身体を離そうとするが、は敦盛の衣の袖を掴む。
「私に触れては…私は汚れているから」
さらに離れようとするが、の瞳が悲しそうに揺れているのを見てしまい身動きが出来なくなってしまった。
「敦盛君は汚れてなんかいないよ?君は、こんなにも純粋で綺麗…」
そこで言葉を切り、押し寄せる感情を堪えるかのように俯く。
続く言葉は、敦盛の耳にやっと届くかどうかというくらいか細い声だった。
「…汚れているのは…私の方…」
「貴女は…」
泣いているのか、と思わず腰を浮かしかけた敦盛には打って変わって明るい笑顔を向ける。
「ねえ、笛を吹いてくれれない?敦盛君の笛の音を聴きたいなぁ?」
「…私の、拙い笛でよければ…」
それで優しい貴女の瞳に影を落とすものを、貴女の憂い少しでも晴らす事が出来るのならば……いくらでも捧げよう。
風の音すら聴こえ無い静寂の中、柔らかく耳から魂に染み入る優しい笛の音に、は尖った氷が溶けだすようにゆるゆると瞼を閉じた―…
ポロ、ポロポロ…
「殿…?」
敦盛の笛を持つ手が止まる。彼の戸惑う表情では自分が泣いている事に気が付いた。
「あは…ごめんね、吹くの、止めないで…」
何とか込み上げてくる嗚咽を抑えようと試みるが、努力に反して涙は止まりそうもない。
穏やかな一曲を吹き終わり、敦盛はゆっくりと瞼を開く。
「あっ…」
小さく嗚咽しながら泣いていたは、今や柱に凭れかかり穏やかな寝息をたてていた。
「、殿…」
自分の拙い笛で少しは彼女の気が紛れてくれたのは嬉しい事だが、反面、涙する姿を思うと何故だかわからないがチクリと胸が痛む。
このまま眠らせてあげたいが、初夏に差し掛かる時期とはいえずっと夜風にあたっていたら身体が冷えて風邪を引いてしまうだろう。
起こすべきか困っていると、後ろの床板がギシリと鳴った。
…いつからそこに居たのだろか。見知った気配に敦盛は振り向かずに声をかけた。
「ヒノエ」
名を呼ばれ、外廊下の曲がり角から姿を現わしたヒノエは、不機嫌さを隠す事無くと敦盛の間に腰を下ろす。
「ったく…こんな夜更けに男と二人って、危機感無いのかよ」
ひどい言われように敦盛は苦笑いを浮かべるが、ヒノエが見つめる先は実年齢よりずっと幼い寝顔を見せる。
「う、ん…」
気持ち良さそうに、ムニャムニャと唇を動かす彼女の様子に苛立つ気持ちが萎えてしまう。
そっと、肩に手を当て自分の方へ引き寄せる。
ぽすっ、そんな効果音がぴったりなほどは簡単にヒノエの肩に凭れてかかる。
「いつも意地ばっかり張ってさ」
最近が眠れて無いのは知っていた。
いつも独りで思い悩んで独りで泣いて…
敦盛が三草の戦で八葉の一人だとわかった時、間者かと疑う九郎や景時から望美と共に庇い、馴染めるように気を配っていた。
あの時は九郎と一触即発な空気が流れ、ヒヤヒヤしたものだ。まったく勝手な女。
自分の事は後回しにして他人の事ばかり優先させる彼女は、自分がどれだけ心配しているかわからないのというか。
(…だが、俺もそんな事を言う資格はない、か)
「生田で何があった?」
思い悩む事は先日の戦での事だろうが、その一言が聞けないでいる。
結局のところはの本音を知るのが恐いのだ。
ただ―…
「もっと、甘えてくれればいいのにな…」
そっと肩に頭を乗せているの額に口付ける。
薄い肩を片手で抱き、真っ直ぐな黒髪を撫でるとくすぐったかったのか閉じた瞳がぴくりと揺れた。
「敦盛お前もだよ」
「ヒノエ…」
幼ない頃から見知っている友人が浮かべた珍しく真剣な表情。
いつもは軽い態度でも、彼は誰よりも信頼の置ける者だという事を知っいる。
「ああ」
敦盛はぎこちないが、しっかりと頷いた。