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驚く望美の脇をすり抜けては知盛の前に出る。
「待って逝かないで…お願い、死なないでよっ生きて!」
ボロボロと溢れ出す涙に最後の方は嗚咽混じりになった。
「無理、だな…」
「俺は十分生きたさ。だが、お前は…」
傷付いた身体のどこにそんな力が残っていたのだろう。
グイッと強く手首を引かれ引き寄せられる。
そして、
深く長い、けれども優しい口付け…
それはほんの数秒だったかもしれないが、にとってとても長い時間に思えた。
唇が離れる瞬間…
「…お前は、生きろ」
思考がついていかず、茫然と目を見開いていると知盛は優しく頬を撫で…
手にした太刀ごと後方へ突き飛ばした。
よろけたを背中から望美が支える。
ハッとなったに、知盛が目を合わせた。
久しぶりに見る、穏やかな目。
平家が京に居を構えていた頃を思い起こさせるような。
そして、彼は微笑む。
優しく…そして、満足げに。
「じゃあ、な…」
「知盛!!」
知盛の体がゆっくりと後ろ向きに倒れていくのがスローモーションで見えた。
肩を支えていた望美の手を振り払う。
「さん!?」
「…!?」
制止しようとする望美とヒノエの声が聞こえる。
それでも足は止まらなかった。
必死に、間に合うようにと走る。そして彼の倒れた船の縁から身を乗り出し、そこから彼へと手を伸ばした。
「 」
唇が、動いた気がした。
バシャン…!!
知盛の体が水面とぶつかり、水飛沫が舞い飛ぶ。
船から落ちるくらい身を乗り出したの顔にも冷たいものがあたる。
(間に合わなかった。私は彼を見死しにしてしまった…こうなる事を知っていたのに。知盛の言葉は…)
伝えられた想いは―…
― 愛してる ―
淡々と思うと、頭の中で何かか「プチリ」と切れる音が聞こえた。
「いや…いやあぁぁぁー!!!」
半ばパニックに陥りかけて、船縁を越えようと力を込めた腕を、強く後ろに引かれた。
「離して!」
「落ち着けって!」
「離して!!早くっ、早くしないと―――!」
掴まれた腕を振り解こうとしたもう一方の腕も、ヒノエにねじり上げられる。
抗議と懇願の視線で見上げれば、彼は瞳を伏せたまま、小さく頭を振った。
「あいつは――助からないよ。ここの潮流は速くて、底の方では渦を巻いているんだ。いくら何でも鎧を着たまま落ちたら上がってこれない。それに、あれだけの怪我を負った者にこの渦を巻く潮の流れには耐えられるはずもない」
「そんな、の…わかって、わかっているよ…でも…!」
泣きじゃくり腕の中で暴れるの視線をまっすぐに捉えて、ヒノエは首を小さく横に振った。
残酷な宣告だが彼女を諦めさせるにはこうするより手はない。
「今…部下に探させている」
九郎の言葉に、ビクリと身体を揺らす。と同時にの全身から力が抜けていった。
「さん?」
急に抵抗を止めたに抑えていた望美が声をかけるが、答える気力はもう無かった。
ああ、これは命が消える気配…彼はもう…
「わたしは知っていたのに…もう、間に合わない…」
一気に力が抜けて、波に翻弄される甲板にずるずる座り込むと、ヒノエに拘束されていた腕が自由になった。
俯きながら自由になった両手で顔を覆う。
「…」
「さん」
心配して自分の名を呼ぶ皆の声に混じって、低く耳に心地良い声が聞こえた。
― … ―
初めて彼に呼ばれた名前…
それは、とても残酷で甘美な刃となって心を突き刺した。
未だに残るのは冷たい唇と熱い舌の感触。口内に広がる鉄さびの、知盛の、血の味。
投げ渡された知盛の太刀を握ると、刃先に触ってしまったか指先に鈍い痛みが走った。
痛い、痛い痛い。
でも…あんなに血にまみれて、彼はもっと痛かっただろう。
もう、嫌だ…嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!
「もう、もういやぁ…誰か、あたしを還して」
呟くと感情が波のように押し寄せてくる。もう自分では止められない。
「還して…元の世界にっ!!」
その願いは叫びとなり力となる。視界が徐々に白く染まっていく。
望美がはっと気付き、胸元の白龍の逆鱗を見ると逆鱗は淡い光を放っていた。
「さん!!」
慌てた望美の顔、だがそれも徐々に霞みがかっていく。
誰かが抱き締めてくれた。そんな気がしたが、その温もりも感じなくなる。
…この痛みと共に全て消えてしまえばいい。
『気付いた時には遅かった』
そんな言葉を噛み締めながらは瞳を閉じる。
ちりぃーん…
どこからか鳴り響く鈴の音と共に、の意識は薄れていった……
「家国興亡 自ずから時有り
呉人 何を苦しんで 西施を怨む
西施若し 呉国を傾くるを解せば
越国亡来 又 是れ誰ぞ」
⇒国の興亡の時は自ずとやってくるものだ
呉の民はわざわざ西施を責める必要など無いではないか。
西施がもし呉の国を滅ぼしたというのなら、越の国に滅びをもたらしたのは一体誰だというのか
『西施』羅隠より
遙か二章 再録