ああ、落ちる
落ちていく…
どこまでも続く落下に恐怖は感じる事はなかった。
…何処までも墜ちてしまえばいい。
いっそこのまま全て忘れてしまえばいいのに。
私という存在が無くなるくらい墜ちてしまえば…
「っ、っ!!」
突然聞こえた懐かしい声は何故か切羽詰まっていて、背中からしがみつくように回された腕の温かさに意識が覚醒する。
ガシャン!
下方から激しく何かが叩きつけられる音が聞こえて、視線を移すとそこにはプレステ2だった(と思われる)黒いモノがアスファルトに叩きつけられ粉々に砕け散っていた。
コードやら基盤やらを道路に散乱させて、かろうじてコントローラーが原型を留めている。
この惨事を引き起こした張本人は紛れもない自分なのだ。
人が下を歩いていなくて良かった…と安堵し、はたっと気づく。
「あ…わ、たし?」
何故、ここにいるのか。
何故、ベランダの手すりから身体を半分投げだしているのか。
何故、こんなにも悲しいのか。
何故、泣いているのか。
何故、なぜ、何故…?
「間に合って、良かった…」
止まってしまった思考をゆるゆると溶かすように、後ろから抱きしめる存在から温もりが伝わる。
「月子ママ…えっ、どうして…?」
「が心配だったから店を抜けてきたのよ」
月子ママに支えられて、はゆっくりとベランダの手すりから降りる。
ベランダのコンクリートの床に足を付けると、右手が細長い何かをきつく握りしめている事に気がついた。
「ぁああ…う、そ」
呟きとともに、右手から滑り落ちた血にまみれた太刀は カシャン と音をたてて転がった。
呆然と見た、月明かりに反射するガラス戸に映った自分の姿は、寝間着として着ているスエットを着ているのに。
外見は部屋でビールを飲んでいた時と変わりないはず…
「そんな、夢、じゃなかったの?」
きつく握りすぎて強張ってしまった掌を開くと、ベットリと付着している赤黒い液体。
身体のどこにも怪我をしていないし、痛みもない。
そうだ、これは…壇ノ浦の戦で彼の流した血。
理解すると、足がガクガクと震えてきて立っていられなくなり膝を着く。
震えだすの背中を、月子は幼子をあやすようにさすり続けた。
「…お帰りなさい」
数え切れないほどの船に掲げられているのは紅白の旗。
号令と共に飛び交う弓矢と血しぶき。
そして悲鳴…
海に漂うは数多の死骸。
目を覆いたくまる光景のはずなのに、脳が麻痺してしまったのか雲一つ無く広がる青空がとても綺麗だと思った。
きっと海に沈んで逝った彼もそう思ったに違いない…
ゆっくりと瞼をひらけば視界がぼやけて見える。
瞬きすれば涙が一筋流れ落ちた。
「また、あのゆめ…」
渇いた喉のためかすれた言葉が喉から出て、ケホケホ咳き込む。
元の世界に還ってきて以来、は毎日のようにあの日の夢をみていた。
(元の世界に、平和な日常に戻って来れたのだから良かったじゃない。あの世界はゲームの世界)
そう頭で納得した筈なのに、涙が出てくるのは何故?
* * * *
「みんなも知っていると思うけど、これが少し前に大河ドラマで有名になった壇ノ浦の戦いです」
黒板に板書されているのは“武家政権の成り立ちについて”
「平家一門はこの戦で主だった者が戦死、或いは入水したり捕らえられました…」
普段と変わらない態度で淡々とした口調だが、気を緩めれば涙が滲んできそうでは唇を噛む。
この時ほど、社会科の教師という職に就いてしまった自分に嫌気がさした。
キンコーンカーンコーン
「はい今日はここまでで終わります。次回は鎌倉幕府の成り立ちから入るから、資料集を忘れないでね」
「起立ー礼ーありがとうございました」
教室から出たに一人の女子生徒が声をかける。
「先生、質問です」
真面目そうな彼女は、確かこのクラスの委員長だったか。
「私、平家物語が大好きなんです。ふと思ったんですけど、平安末期の源平合戦でもし平家が勝ったらどうなっていたと思いますか?」
「う〜ん、そうだねー何とも言えないけど、平家が勝ったら武士の台頭は無かったんじゃないかな?それとも、違う文化が花開いたかもね」
思いもよらない質問に考えながら答える。
平家が勝ったら…不思議な話だが考えた事が無かった。
「…平家一門のあの潔さは本当にすごいと思うんです。滅びの美学っていうのかな、平知盛の最後とか弟の重衡と千手の前との話とか…」
委員長はどれだけ平家が好きか、休み時間の終わりを告げる鐘が鳴るまで話し、満足した様子で教室に戻っていった。
彼女は確か常に日本史は満点だったな、と思わず苦笑いを浮かべる。
「平家が勝ったら…か。ううん、もう関係無いじゃない」
は頭を振ると、次の授業のクラスへ足早に向かった。