閉じていた瞼を開けば辺り一面は深い霧。
布団に入って眠ったはずなのにこんな場所に居るなんて…触覚と嗅覚は麻痺していて、地に足が着いていないような危うげな浮遊感を感じて、此処は夢の中だとまわらない思考が告げる。
一メートル先も見えない視界の中で、よく目を凝らして見れば朧気に此処は鬱蒼と草木が茂る山の中だという事は分かった。
感覚のあまり無い両脚に「歩け」と命じればそれに応えるように場面が切り替わる。
っ!?
場面が切り替わると同時に、霧が晴れて視界が鮮明になった瞬間。息をのんだ。
切り立った谷。
その谷が何かで埋まっている。
よく見れば谷底から折り重なって倒れているのは人間で。
戦装束を血に染め、苦悶の表情で息絶えた武士達。
彼等の傍らには折れた深紅の旗が風もないのに微かにはためいていた。
案ずるな。
突然現れた存在は徐々に人の形をとり、赤毛を括った金色の衣を纏った少年の姿となって屍の山の頂へと降り立つ。
案ずる事は無い。無念の思いを抱えて死んだ者達はいずれ怨霊として二度現世へと蘇る。怨霊は死する事無き存在。奴等が存在する限り平家は安泰だ。
違う…
異質な雰囲気を放つ少年に向かって絞り出した声は微かに震えていた。
痛いほど唇を噛み締める。
こんなの違う。彼等の無念の思いを利用しないで。平家のために死んでいった彼等を可哀想な怨霊にさせないで!
こんな光景は望んでいない。
そうだ、白龍の神子が変えてくれないのならこんな悲しい運命は変えてしまおう。
ほぅ…我に楯突こうとするか。お前は誰だ?
私は……
名を告げれば赤毛の少年は満足そうに頷く。
変えたいと願うのならばお前が木曽を、源氏を葬るのだな。そうして血に染まりお前は修羅へと堕ちるのか?
肯定も否定も出来ずに、ただ涙と吐き気が込み上げてくる。
涙で歪む視界の中、愉しそうに笑う少年には見覚えがあった。
平清盛―…
この夢は…もう直ぐ先の未来で起きる事。
此処は倶利伽羅峠…木曽義仲との戦の後。
時は寿永二年 三月。源頼朝が木曽義仲討伐へと動き始めた頃―…
京では、一日一日と陽射しは柔らかく暖かなものとなり、春の足音が近付いて来ていた。
ほのかに薫るのは庭に植えられた桃の花。
底冷えする京の厳しい寒さから解放される事は嬉しいはずなのに…開けられた格子から庭を眺めては、の口をついて出るのは大きな溜め息ばかり。
「姫様どうかなさいましたか?」
「まだまだ風は冷とうございます。あまり外に出ていては風邪をひいてしまいますわ」
「あ、いや別に調子が悪いとかそうじゃ無いの」
格子を閉めようとするゆきと、心配そうに上掛けを持って来るさきに慌てて笑顔を向ける。
別に体の調子が悪いのではない。華奢そうに見えて実のところ、寒空の下で将臣達の稽古を長時間見学していても風邪もひかないくらい丈夫だったりする。
体調は大丈夫。ただし気持ちの面で憂鬱な気分、というか…
「ただ、これをどうしようかと思って…」
苦笑いを浮かべて見上げた先には、平氏の有力な殿方から贈られた豪奢な打ち掛けやら反物がずらりと並べられていた。
異性同性問わずに素敵な品を贈られる事は嬉しいが…、贈られてくる品は物の価値がよくわからないでさえ高価だとわかる品々で。
価値以上にその量も問題なのだ。
「こう毎日だとさすがにね…」
贈られてきた品を見ていると、先日の宴では普通に舞っただけのはずなのだがもしかしたら余計な事をしてしまったのかも…と頭痛がしてくる。
思わず溜め息混じりに右手で顔を覆ってしまった。
「姫様っ、やはり薬湯を用意しますわ」
「あ、いや本当に大丈夫だって」
「姫様に何かあったら…あっ!」
顔を上げたさきは、見覚えのある狩衣を着込んだ姿を見付け、慌てて居住まいを正す。
「屋敷の中でもそなたの周りは相も変わらず賑やかだな」
外廊下から聞こえた特徴のある足音と声で誰が来たのか分かると、の顔が嫌そうに歪む。
「宗盛様。騒がしくて申し訳ございません」
振り向いた先には、やはり見た目は少し神経質そうな細面の整った顔立ちをした公達。
平清盛が三男、現平氏の棟梁である平宗盛。
愛想笑いを浮かべながら外廊下へ出て、軽く頭を下げるに宗盛は器用に片眉を上げると、満足気に鼻を鳴らした。
「いや構わぬ。父上が亡くなってから、沈んでいた屋敷の者達にはそなた達の賑やかさは良い影響を与えているのだろう」
言いながら近付くと、手に持った淡い桜色の小さな包みをに渡す。
「これは?」
「先日、大陸からの珍しい菓子を手に入れてな。そなたは、は甘い菓子が好きだと小耳に挟んだので持って来たのだが」
手渡された包み越しに小さな粒のような感触を感じ、飴か何かが入っているのだろうと包みを開くと…
「これ…金平糖?ありがとうございます」
可愛らしい小さな突起が付いた粒達は確かに見覚えのある形。
甘い食べ物が少ないこの世界において、素朴な甘さの金平糖を食べる事が出来るなんて。
くしゃり、と作られた彼女の表情が嬉しさに崩れる。
愛想笑いでは無い素のの笑みに、普段はあまり表情が動かない宗盛の頬も綻ぶ。
「気に入ったか?我が屋敷へ来ればいつでも手配させようぞ」
「いえ、そんな…私には勿体無い程で御座います。宗盛様、お心遣いありがとうございます」
…宗盛から誘われるのは何度目だろうか。
彼には美人の奥方様やら側室がいるというのに、今回は珍しい金平糖で釣ろうとしたとは。全くいい加減にしてほしい。
は口ではやんわりと断るが、内心では舌打ちをしていた。
「ふん、そなたは本当に無欲でつれない女だな。他の女の様に媚びる事もしないとは…だがもう少し欲深く、賢くなったらどうだ?」
賢い女ならばもっと器の大きい男を選ぶというもの。整った顔立ちをしていようが、残念ながらにしてみたら彼の誘いは迷惑でしかない。
肩に触れようと伸ばされる宗盛の大きな手から逃れるべきか迷った時、救いの人物が現れた。
「!」
小走りにやって来た気配に、その場の緊張感が一気に緩む。
「ちっ有川将臣…!」
安堵の息を吐くとは対照的に宗盛は忌々しく舌打ちをした。