バタバタと足音高く走ってきた将臣を睨み付けようと、振り向いた宗盛の眼が大きく見開かれた。
何故なら、将臣と共にいたのが彼のもっとも苦手とする人物だったからだ。
「クッ、兄上お邪魔しましたかな?」
「知盛か…」
自分を認識して眉を寄せる兄に知盛は如何にも愛想笑いと分かる笑みを浮かべると、優雅さすら感じさせる動きで空にうっすらと見える月を指差した。
「今宵は満月。麗しい姫君を誘って月を愛でながら酒を呑もうかと思いましてね。お誘いに馳せ参じたですが。…よろしければ兄上もご一緒に如何ですか?」
「いや…遠慮させてもらう」
「そうですか。兄上のために大陸からの珍しい菓子を手配させたのですが、それは残念」
さらりと嫌味を言う知盛に宗盛の顔はみるみるうちに真っ赤に染まる。
はポカンと二人を見詰め、ゆきとさきは下を向き、将臣は吹き出しそうになるのを堪えて肩を小刻み揺らす。
「では失礼する!」
苛立ちを込めて言い放つと、宗盛は床板を踏み破るくらいの足音をたてて足早に立ち去って行った。
好感は持てない相手だが、少しばかり彼が気の毒に感じても仕方が無いだろうか。
「将臣君、知盛様ありがとうございます」
「大丈夫だったか?アイツに変な事されてないか?」
に勢い良く詰め寄ろうとする将臣に「大丈夫」と告げようとした時、二人の間にゆきが遮るように間に体を滑り込ませる。
「将臣様、知盛様、誠に申し訳ございませんが…」
「ゆきさん?」
「姫様は少し体調が優れ無いご様子ですので、今宵の満月の会は辞退させていただけないでしょうか?」
「さきさんも…」
「おい、風邪でもひいたのかよ?だからあんまり薄着で出歩くなって言ったじゃねぇか」
大袈裟に頷くゆきとさきに笑顔を向けられ、彼女達の無言の圧力に違うとも言えない。
すっかり二人の女房の話を信じての体を気遣う将臣とは逆に、知盛はクツリと喉を鳴らした。
「ほぉ…随分と職務に忠実な女房だな」
「「ありがとうございます」」
見事に重なる二人の声。
知盛に対しても臆さない彼女達には敵うわけない、その事を改めて思い知った。
溜め息混じりに知盛を見やれば彼との視線が絡み合う。
「確かにお疲れのご様子か…クッ、しとやかな姫君を演じるのは、窮屈で仕方がないといったところか」
「えっ?なにを…?」
「お前は、その身の内側でもっと貪欲で獰猛な獣を飼っているはずだろう?“姫君”」
何を言っているのか理解出来ずに、ただ“獰猛な獣”その言葉に心臓が大きく脈打つ。
“お前自身が修羅へと堕ちるか?”
の反応を愉しそうに伺う知盛がなぜか夢の中で見た清盛の姿と重なって見えた。
「…っ」
刃の様な紫紺の瞳に見詰められると、心の内を見透かされているようで何も言えなくなる。
だが負けるわけにはいかない。
しっかり知盛の視線に目線を合わせると口の端を吊り上げた。
「…では、次にお会いする時は獰猛な私のお相手をお願い出来ますか?」
「クッ、姫君のお相手は今この場でも構わないのだがな」
口元は笑みを形どるが、細められる紫紺の瞳。
「おい知盛!」
「知盛様、お止めくださいまし」
張り詰めた緊張感すら感じさせるただならぬ雰囲気に、さすがに女房二人と将臣が間に入って止める。
「お前なぁいい加減にしろよ」
「これは失礼」
全くそう思っていない声色に将臣は眉間に皺を寄せながら溜め息を吐くが、ポンとの頭を軽く撫でると豪快に笑う。
「じゃあな、ゆっくり休んで早く治せよ。おら行くぞ知盛!」
「では姫君、御前を失礼いたします」
恭しく頭を下げて知盛が顔を上げた瞬間、を見据えて言葉は紡がずに彼の唇が動いた。
だけが読み取れた言葉は…「またな」
「なんだか嵐の様な方々だったね」
同意を求めるためにゆきとさきを振り返るが、浮かべていた苦笑いも消えてしまった。
なぜなら、将臣と知盛の姿が外廊下から消えてもゆきとさきは渋い顔のままだから。
「姫様は知盛様の事をどう思っていらっしゃいます?」
「…どうって?」
唐突に聞かれた問いにパチクリと瞳を瞬かせてしまう。
「あの方は、知盛様は駄目です。数多の女御が戯れに抱かれ飽きたら捨てられた、と聞いております。さきは姫様が傷付き泣かれる姿は見たくありません」
「さきさん…何かあったの?」
「いいえだだの噂でございます。さっ、姫様冷えてしまいますから部屋に戻りましょう」
二人の慌て様に首を傾げてしまったが、引きずられながら自室に押し込められてそれ以上は聞く事は出来なかった。
「せっかくの満月なのになぁ…」
「久しぶりに飲みに行きたい」なんて言い出すことも出来ずに、恨めしい思いで眉を下げながらは格子から夕暮れに赤く染まる空を見上げた。