最近考え込む事が多いのために、と気合いを入れて二人で蜂蜜に漬けこんだ柚子を手にゆきとさきは廊下を歩いていた。
の喜ぶ顔を想像するだけでにやけてしまう口元を抑えながら、襖を開けたさきの表情が一瞬にして固まる。
「姫様…?」
室内を見渡しても部屋の主は居らず、もぬけの空。
「どうしたの?」
室内が見えないゆきにはかまわずに、小刻みに震える手できっちりとたたまれて床に置かれたた単衣を手に取る。
それは自分の仕える姫君が今朝纏っていたはずの単衣で。
「「姫様〜!?」」
悲鳴にも似た叫び声は、離れた部屋で炊事をしていた女房の耳まで届いたという―…
* * * * *
数時間前―…
やわらかな陽射しが日一日と暖かさを加えるこの頃。
長い睫が影をつくる。
物憂げな様子の彼女にほとんどの者は声をかけるのは躊躇うだろう。
しかし、平清盛亡き後、平氏一門の精神的な要となっている時子より側仕えの命を受けてから数ヶ月間。
知識として理解していた貴族の姫君とは異なり、不思議な魅力を醸し出す彼の姫君は一筋縄ではいかない。
庭を眺めながら何かを愁いている様に見えて実は何も考えていないとか、大人しくしていれば他の女房達が羨むような麗しい外見なのに、それを裏切るような行動に出るなど、彼女でなければ本当にとんでもない姫君だと愚痴を言い合っていただろう。
こんな時はきっと、とんでもない事を言い出すに決まっている。
しかし、今回は本当に何かを思案している様子の主にゆきは声をかけた。
「姫様、どうかなさいましたか?」
「あ、どうかというか…ただ、皆忙しそうだし何かあったのかなぁと思って」
の問いに二人は言葉に詰まる。そしてちらりと目配せをした。
「普段と同じく何もございませんよ」
「そうですよ。私達も何も聞いておりませんもの。姫様がお気を病まれることはありませんわ」
「うん、そうね…」
“何も無い”そう言われても納得などする筈もない。
自分の側に居る時はいつもと変わらない二人。
けれども彼女達の表情が一瞬だけ曇ったのをは見逃さなかった。
屋敷の奥まった部屋に居ても、耳を澄ましていれば女房達の声を顰めた話声が聞こえる。
彼女たちはには隠しているようだが、兵達が慌ただしく動き回っているのは分かるものだ。
(そういえば時子様も浮かない表情だったな…)
先日会った時子は表面上は変わったところは見えなかった。
だが、ふとした時に見え隠れする表情には二人の女房同様にどこか影があったような気がしたのだ。
(今は何年だったっけ?)
眉間にシワを寄せながら、最近はあまり使わなくなっていた頭の中の記憶を探ってみる。
(寿永二年三月…)
たしかさきが「弥生」と言っていたから今は三月のはず。
(源頼朝が木曽義仲討伐のため挙兵。たしか義仲の息子を人質に取って和平に持ち込んだんだっけ)
(その後、四月中旬から平家軍が木曽義仲討伐に動きだす…)
何も知らせないのは、が平氏とは無関係の部外者だからか。
それとも、心配をかけさせないための気遣いか。
ふぅ…と溜め息を一つ。
答えはその両方。おそらく時子が女房達の口止めをしているのだろう。
チラリと横の壁際を見やる。敦盛から借りた狩衣は見付からないように葛籠の奥にしまってあった。
「姫様?」
「あ…ごめんなさい。実はね、昨夜家族の夢をみたから少しぼぅっとしてしまっていたみたい。だからなのかな?神経質になっているのかもしれない」
「まぁ…」
「姫様…」
声のトーンを下げ瞼を伏せれば、ゆきとさきは本当に心配そうに瞳を潤ます。
少しだけ心が痛んだが、この場を切り抜けるためには仕方ない。
「少し、一人にしてもらってもいいかな?…たまには物思いに耽っていたいの」
ガギィン!
雲一つ無い澄んだ空に硬質の木材を激しく打ち付け合う音が響く。
何時もは男達が武術の腕を磨き熱気溢れる鍛錬所だが、今は静まり返ってただ激しく木刀を打ち合う音が響くのみ。
鍛錬所の中心には男達が集まり、固唾を飲んで稽古をする青年二人を見詰めていた。
「くっ!」
木刀を打ち付けられた衝撃に、蒼髪の青年は手が痺れたのか握っていた木刀を落とす、と同時に銀髪の青年は将臣の喉元に木刀の切っ先を向け、口の端を吊り上げた。
「くそっまたかよ」
「クッ有川、猪ではあるまいし…力ずく突進して来ても無駄だと言っているだろう?」
「わかってるけどさ、なかなか難しいんだよな」
小馬鹿にしたような知盛の言い回しもニカッと笑い飛ばす。
ただそれだけで、張り詰めていた鍛錬所の空気が一気に緩んだ。
「は…?」
まだ吐く息も白く肌寒い気温の中流れ落ちる汗を拭った時に、武骨な武士達の間に華奢な人物を視界に捉えて…将臣の目が大きく見開かれた。
「…?」
自分の口から飛び出た名前に信じられずに小さく彼女の名前を復唱する。
目を瞬かせても見間違えではない。
兵達の隙間をすり抜けながら自分達の方へと向かって来る人物は…
浅黄色の狩衣を纏い髪を一つに結った姿は一見すると綺麗な顔立ちをした中性的な少年に見えるが、間違い無く“麗しい姫君”。
マジかよ、と呟くと同時に将臣は駆け出した。
「有川?」
手拭いを放り出して突然走り出した将臣に、周囲の兵達も知盛も眉を寄せる。
「あ、将臣く…」
兵達を掻き分け、少し戸惑うを押し倒す勢いで駆け寄ると、その細い肩を掴んだ。
「お前っそんな恰好して何やってんだよ!?」
「えと、何って、脱け出して来ちゃったの」
悪戯がバレた子どものように、ぺろっと小さく舌を出す。
彼女の言っている事がすぐには理解が出来ずに将臣の口からは「はぁ」と間の抜けた声が漏れる。
「え…まさか」
「姫様?」
に気が付いた兵達もざわざわと騒ぎ出す。
まずいな、と軽く舌打ちをすると将臣は抑えた声で二度問う。
「だから…何だって?」
「私も稽古を付けてもらいたくて」
「はぁ?」
将臣は思わず自分の耳を疑って、素っ頓狂な声を上げた。