閑話
例年以上に暑い夏が過ぎ、朝夕の風が冷たくなってきた。季節はもう秋―…
この日と奈々は、ヒノエに連れられて那智の滝まで来ていた。
夏の間は引っ越しやらでバタバタと忙しく、また、修験者達の業が行われていたため、見に来ることができなかった。
そのためヒノエに頼み、やっと此処に来ることができたのだ。
お母さんの手伝いの為一緒に来れない加奈には、「、奈々、ヒノエ様を誘惑しないでよ!?」冗談と本気半々が混じった事を言っていたな。
「さぁ、着いたよ」
飛瀧神社の大鳥居をくぐった先には―…
「わぁーすごい。これが、那智の滝…」
那智山の崖から流れ落ちる日本三名瀑の一滝。
その落差は133mと言われ、飛瀧神社の御神体とされている。
紅葉が水煙に霞み、太陽の光がキラキラと輝いている光景は夢の中にいるようだ。
「カメラがあったらなぁ…」
は夢見心地で、降りかかる水しぶきも気にならない程滝を眺めていた。
「…ってばっ!」
いきなりグイグイ と奈々に腕を引っ張られる。
「…何?」
「何?じゃないでしょっ濡れてるって!」
言われてみれば…滝からの水しぶきがかかり、全身がビチョビチョに濡れていた。
「何か冷たいと思ったら…」
濡れてしまった髪を掻き上げる。流石に今の時期は、このままだと風邪をひきそうだ。
手拭いを出し、メガネに付いた水滴を拭おうとして外し、顔を上げた。
その時、滝の音が止んだ。
「あれ?」
「どうした…」
急速に遠くなっていくヒノエの声。
「ヒノエ、君?」
ヒノエの服を掴もうと手を伸ばす。
だが、掴む事は出来なかった。近くに居る筈の奈々が遠く離れていく。
まるで、自分だけが流れに取り残されたかの様に、周りの景色が凄い速さで流れていく。
キィィ――ン…
耳鳴りと風圧に耐えきれず、両手で耳を塞ぎ、ぎゅっ と瞳を閉じた。
それが続いたのは数分もの間だったのか、一瞬だったのか…
いつの間にか風はおさまっていた。
ぴとーん…
ぴとーん…
何処かで水音が聞こえる。
瞳を開くと其処に見えるのは一面の闇…
は真っ暗な空間に居た。
(…此処は、何処?)
微かに聞こえる音を頼りに、その場所まで歩く。
何故だろう…。急いでその場所に向かわなければいけない気がした。
どのくらいの距離を歩いただろうか?
水音は ごぅごぅ という滝の落ちる音に変わっていた。
パアァァ――…
「っ!?」
急に視界が開け、光が溢れた。
(此処は、那智の滝?)
目の前に広がるのは、高い崖の上から水が流れ落ちる壮麗な滝だった。
その滝壺の側に座するのは、袈裟を着て髪を剃り、頭を丸めた4人の僧と水干姿の男。
空を仰ぎ、経を唱えているその姿は…
まるで世を儚み、死を決意したかの様に写った。
「…摂取不捨の本願あやまたず、浄土へ導きたまえ」
の存在が見えていないのか、涙を流しながら読経を唱えている。
先頭に座する若い僧の憂いをおびた美しさに目を奪われた。
(これは?彼等は…)
パアァァ――…
「また?」
彼等に近付こうとした時、まるで舞台の幕が下りる様に…視界がゆっくりと閉じられていった。
(いったい、何処に導こうとしているの?)
再び、真っ暗な空間から幕が上がるように、ゆっくりと視界が開けていった。
ザザーン…
次に見えたのは、暗闇の黒では無く青。
…は海上に立っていた。
近くには、先程の僧達が乗った小舟が波に揺られているのが見えた。
その美しい若い僧は舟の縁に立ち、涙を流し合掌している。
憔悴しきっているとはいえ、何処かで見た覚えのあるその人物。
(っ、まさか!)
彼は、彼等は…海に身を投げようとしているのだ…!
それに彼は…!
止めければっ!!
はっ と気付き、舟に向かって駆け出そうとした。
だが、波が足にまとわりつき進むことが出来ない。
「待って…駄目っ…!!駄目だよ!!諦めないで生きてっ!!…今死んでしまったらあなたは怨霊にされてしまう!」
声が届いたのか、振り返った男の唇が何かを呟いた。
声は聞こえなくとも、その意味は届いた。
「えっ…?何を…?」
ばしゃんっ!
「惟盛殿っ!!」
彼の躯も、の叫び声も、揺れる波間に飲み込まれて消えていってしまった…
呆然と立ち尽くし、海に飛込む前に何かを呟いた彼の唇の動きを真似てみる。
「あ、なたは…我等の…」
― 貴女は、我等の運命を変えようとはしてくれなかった ―
唇を痛い程噛み、体の震えとともに涙が溢れ、頬を伝う。
何故、そんな事を伝えてくるの?
「わ、私は…だって、この世界の人間ではないもの…どうすれば良かったの!?」
叫びに応えるように強烈な光が放たれ、耐えきれず瞳を閉じた。
キィィ――ン…
先程と同じ耳鳴りと風圧を肌に感じる。
…これは、夢から覚める合図。
(そうだった、此処は、熊野…平惟盛が入水したという…ああそうか、だからこんな幻視が視えたんだ…)
「…?」
「…あ」
ヒノエに肩を揺すられ、は我に帰った。
此処は先程の暗闇では無く、那智の滝の前…戻って来たのか。
「随分呆けていたよ。どうしたんだい?」
顔を覗き込もうとするヒノエに急いで背を向ける。
聡い彼なら、きっと泣いているのは気が付いただろう。
「ほら、これ。濡れたままでは風邪をひいてしまうよ〜」
奈々に手拭いを渡される。冷たさが混じる秋風と湿った着物が体温を奪っていく。
「あ、ありがと…っくしゅっ」
少しでも暖を得ようと、自分の腕で体を抱き締めていると、フワリと頭から上衣を被せられた。
「…ヒノエ君?」
「姫君に風邪をひかせる訳にはいかないからね。だから…こうして隠していなよ」
「…ありがとう」
彼のさりげない優しさに、少しだけ心が暖かくなった気がした。
「悔しいけれど、ヒノエ君はいい男だね」
「惚れたかい?」
「はいはい、自惚れなければね」
「は本当に守りが固いね。まっその方が落とし甲斐があるけど、ね」
冗談か本気かわからないような台詞を口にするヒノエの額に、軽くチョップをかましてやった。
「お姉さんをからかうんじゃありませんっ」
二人のやりとりを見ていた奈々が一人溜め息をつく。
「…これを加奈姉さんが見たら卒倒しそうだよ…」
ヒノエの上衣を纏って帰宅したを見て、加奈が壊れたのは言うまでも無い―…