閑話
熊野川の氾濫がおさまり、熊野大社へとやってきた後白河院一行の対応やら何やらで、暫くの間九郎達と別行動をとらざるえなかった。
狸爺さんの相手を適当にして、後の事を部下に任せると数日ぶりに勝浦の九郎達が滞在している宿にやってきた俺を持っていたのは、会いたかったの笑顔ではなく望美の信じられない一言だった。
「さんは戻らないかもしれない」
瞼を伏せて言う望美を見て、望美との間に何かあった事を悟ったが俺は烏達を動かす前に走り出していた。
民家を走り抜けて、朝市の準備で動き出している通りに差し掛かかると美味そうな匂いがするが俺は脇目を振らず走る。
馴染みの水軍衆に声をかけられたが立ち止まることは無かった。
もう勝浦から離れてしまったのか?その思いが脳裏をよぎるが、頭を振って否定する。
いや、彼女は自分に何も言わないまま消えるような薄情な女ではない。
そう…まだ間に合うはずだ。
朝日に水面が煌めいている浜辺まで出ると、砂浜に探していた後ろ姿を見つけ…それが彼女だと脳が理解する前に叫んでいた。
「!!」
ビクリ、と身体を揺らすと彼女は少しだけ顔を上げた。
急いでの側へと駆け寄る。
「あ…ヒ、ノエ君」
「無事、か?」
声は掠れて少し憔悴している気がするが、どこにも怪我は無い事に安堵した。
だが同時に疑問が生じる。
赤く腫れている目元はまだ涙が残っていて、すっかり浮腫んでしまった顔。
笑おうとしているが、泣いていた事は明らかで。
まさか、ずっと泣いていたのか―?
肩に掛かる長い黒髪を掬いとると…が何時も纏っている香とは異なる香が鼻腔を擽った。
「…」
望美と何があったんだ?
今まで何所に行っていたんだ?
…誰と一緒に居たんだ?何故泣いて、いたんだよ?
この香の相手はお前にとって何者―…?
喉まで出かかった言葉それらの言葉は、顔を上げたの泣きはらした顔を見たら結局何も言えなかった。
泣き疲れて腫れてしまった頬を、労るように掌で包んでやる。
思った異常に滑らかな肌を感じて、涙に濡れる瞳に不謹慎にも胸がときめいてしまった。
以前そうしていた時と同じく、そっと額に口付けると彼女の瞳から再び涙がひとすじ溢れ落ちた。
「っ、ヒノエくん」
俯きながら俺から離れようとするの華奢な身体を抱きしめる。
泣きたいなら好きなだけ泣けばいい。
俺の胸で好きなだけ泣いて、そうしてお前の髪から香る移り香の相手を忘れてしまえばいい。
でも、頼むから…
「…どこにも行くなよ」
「ごめんね…」
戸惑いながらもゆっくりと俺の背中にの腕が回される。
何だか自分が慰められている気がしてきて、小刻みに震えるを抱きしめる力を籠めた。
* * * *
ヒノエに抱きしめられて彼の温もりを感じながら、は数時間前に感じていた彼の温もりを思い出していた。
…許して欲しい。酷い彼の遠ざかる背を追うことも出来ない自分を。
何があったかを悟り、それでも抱きしめてくれる優しい彼に縋る事が出来ない自分を。
「本当にごめんなさい…」
呟いた言葉は誰に対したものなのかにも分からなかった。