ポカポカ暖かい春の陽気に、屋敷の庭に植えてある桜の蕾も綻び、今は七部咲きといったところ。
「神泉苑の桜?」
「そうとても美しいらしいのよ」
居眠りをしたくなるくらい気持ちの良い日、律華は拭き掃除をしながら先輩女房とたわいもないお喋りをしていた。
「見に行きたいな。行っちゃおうかなぁ」
遠くを見詰めながらの彼女の発言に、女房は余計なことを言ってしまったかもしれない内心青ざめた。
この娘なら本当に屋敷を脱け出しかねない。
「駄目よ。私達には御勤めがあるから、勝手に脱け出して行くわけにはいかないの」
慌てる先輩女房に対して律華は少し考えたが、良案を思いつきにんまりと笑う。
「なら、知盛さんにお願いすればいいじゃないですか」
あまりにも怖い者知らずな発言に、女房は何も言えなくなってしまった。全くこの娘は何を言い出すのだ。
「な、何を…」
「何を言っているのですか?!」
スパーン!
先輩女房の言葉に被って、勢いよく二人の後ろの襖障子が開けられる。
呆気にとられる二人の前に、鬼の形相をした古参女房が現れた!
「律華あなたは身分というものをわきまえ…あ、こらっ!」
(逃げるが勝ち!)
お説教など聞く気はさらさら無い。瞬時にそう判断した 律華は、その場から脱兎の如く逃げ出した。
「待ちなさい!話はまだ終わっていませんよ!!」
またか…先輩女房は溜息を吐いた。
またこれから二人の鬼ごっこが始まる…せっかく掃除をしたのに無駄になってしまうだろう。
こんな光景は、屋敷の日常茶飯事となっていた。
どんっ
「いたたた…」
角を曲がった瞬間、派手にぶつかり尻餅をついてしまった。
ただし、尻餅をついたのは自分だけ。その衝撃で、眼鏡が外れて落ちてしまったが痛むお尻に泣きそうになる。
「大丈夫ですか?」
差し延べられた手を遠慮がちに握ると、軽々と起こされた。
自分がぶつかった相手は、銀髪の…
(あれ?知盛さん?何か感じが変わった?)
首を傾げながらも律華は握った彼の手を離す。
「ありがとうございます。あの私、あなたを探していたんです!」
「私を?」
「神泉苑に桜を見に行きたいんですが…知盛さんはいつお仕事が暇になりますか?」
銀髪の青年は、自分を「知盛」と呼ぶ律華に僅かばかり眉を寄せた。
いきなり何を言い出すのかと思ったが、彼女から向けられる真っ直ぐな眼差しと屈託のない笑顔は心地良い。
このまま訂正しないでいる方が面白いかな、とむくむくと湧き上がった悪戯心で彼の口元には笑みが浮かぶ。
「ふふ、いいですよ。私が連れて行って差上げましょう」
「本当ですか!?ありがとうございますっ知盛さん!」
「ええ、ああそれと…」
目の前の彼は何かを言おうとしたが、
「律華〜!!」
宿敵である女房が探す声が聞こえて、律華の顔は一気に青ざめていく。
「あっ、ヤバッ…すいません失礼します」
ペコリ とお辞儀をして、急いで眼鏡を拾い律華は駆け足でその場を後にした。
「まったく、騒がしい方ですね」
大慌てでパタパタと去って行った律華と入れ違いに、息を切らせながらやって来た女房に青年はにこやかに話し掛けらる。
「も、申し訳ありません。重衡様」
律華は動揺していたのと、眼鏡をしていなかったために知盛と勘違いしていたが、この銀髪の公達は知盛の弟平重衡であった。
「もしや、あの娘がご無礼な真似でも…?」
女房の姿を確認して重衡は一瞬、目を疑った。
他の女房達を統括し常に冷静さを失わないこの女房が、髪を乱し走ってくる様など見たことは無かった。
「いえ、とても元気なお嬢さんですね。兄上から、最近屋敷が賑やかになった、と聞いたのですが、確かにそのようですね」
「賑やかではありません…あの娘には、ほとほと手を焼いております!」
ウンザリした口調とは裏腹に、重衡には女房の顔はどこか楽しそうに見えた。
「では、御前を失礼致します」
しずしずと去って行ったが、角を曲がった辺りからパタパタと走って行く足音が聞こえた。
これからまた彼女たちの鬼ごっこの続きが始まるのだろう。
「 律華。彼女が件の兄上のお気に入りですか。ふふ、それにしても“知盛さん”か…」
重衡は、ふっと悪戯を思い付いた子供のように微笑んだ。