― 自分が生まれ育った時代は何て幸せだったんだろう ―
平安時代は甘い食べ物や砂糖(サトウキビが栽培されるのはずっと先の話らしい)が高価とされている。
そのため庶民の口には甘い食べ物は滅多に入らないらしい。
いつも新作チョコレートが発売されると飛び付いていたくらい、甘いもの好きなとしたらスイーツが無い時代など耐えられなかった。
「いつも手伝ってくれて助かるわ。、これは皆には内緒で食べるのよ」
「わーいありがとうございます」
頬を紅潮させながらは満面の笑みで“お目当ての物”が入った器を受け取った。
…まるで子犬に餌付けをしているようだわ。
台所を任されているこの女房はそう思ったという。
(お手伝いは人のためになるし、甘いものも貰えるしあたしって頭いい)
どうしても甘い物を食べたかったは無い知恵を振り絞り、台所の煤払いの掃除を手伝って報酬として甘い物を手に入れる事を思い付いたのだ。
もちろん知盛にお願いする事が一番手っ取り早いのだろうが、それはさすがに狡いと思ったから止めた。
器いっぱいに入れて貰った杏の蜂蜜漬けを独り占めにするのは申し訳無い。
杏の素朴な甘い味はとっても美味しいのだ。
年齢も近く屋敷で一番仲良い女房と一緒に食べようかと、彼女の部屋へ行くためは渡殿を歩いていた。
「?」
「うわぁっ!?」
「なに、どうしたの?」
器を抱えながらヨタヨタ歩いてくるの姿が不自然すぎて、女房は部屋の中から声をかけたのだが、声をかけられた当のは飛び上がってしまった。
落としかけた器を持ち直しそうと手元を見た時、の表情が一瞬固まる。
「うえ、いやぁ…えっ!?」
「どうしたの?」
「あ、ううん…何でも無いです。それよりコレ、一緒に食べませんか?」
「あらぁ〜良いわね」
器の中身を確認した女房は両手を叩いて喜ぶ。手招きしながらを部屋へと招き入れた。
(あれ?戻ってる…)
…彼女には心配させまいと笑顔を作っていたが、は内心首を傾げていた。
今のは見間違えだったのだろうか?
一瞬、ほんの一瞬だったが手のひらが霞んで手のひらの向こう側が透けて見えた、気がした。
「気のせいだったのかなぁ?」
手のひらを握ったり開いたりしてみるが、特に変わった様子は無い。
何故だかわからないが、ただ、漠然とした不安だけがの心に影を落とした。
* * * *
「あーあ、もう桜も終わりかぁ…」
気紛れな春の風に庭の桜も散り始め、あと二、三日もすればこの綺麗な桜は葉桜になってしまうだろう。
時間というのは本当にあっという間で。
屋敷の庭で咲く桜も散ってしまうなら、先日見に行った神泉苑の桜も散ってしまうのか。
闇夜に浮かぶ十六夜の月明かりに、照らし出された桜を眺めていると少しだけ寂しい気分になって、は髪に付いた花びらを人差し指に乗せる。
息を吹きかけただけで飛んで行ってしまう花びら。
それがとても儚くて、何故か自分と重なって思えた。
「………」
庭に下りて桜の花びらを追うを濡れ縁に座して見ていた知盛は眉を寄せる。
夜風に舞う桜の花びらの中で、の姿が消えてしまいそうに見えたのだ。
夜更けに庭に下りるなどこの屋敷の女房では絶対にしないこと。だからこんなよけいな不安がよぎったのか。
酒が注がれた杯を盆の上に置き、知盛はゆっくり立ち上がると庭へと降りた。
「」
知盛の声で彼が近くに居る事に気付いて顔を上げると、の指先に乗っていた花びらは地面へと舞い落ちていく。
「…ずいぶん呆けていたな。何を考えていた?」
「えっと、桜がもう終わりだなって…」
「それだけ、か?」
続きを促す知盛に首を傾げそうになるが、いつもとは違う真剣な彼の瞳に戸惑いながら言葉を続ける。
「あのね、私ね…本当は知盛さんと一緒に神泉苑の桜を見たかったんです」
でももう遅いですね、と眉を下げながら笑うに知盛は無言のまま近付くと、彼女の柔らかい髪に触れてそのまま髪を耳にかける。
そして、左耳の上辺りに硬くて冷たい何かを差し込んだ。
「なに?」
耳元に差し込まれた物に手で触れると、シャランと金属の小さな音がした。
「これ…髪飾り?」
抜き取って手に取ってみるとそれは…月明かりを反射して輝く、銀細工の先端から桜色の小さな玉が数個垂れ下がった桜の花を型どった可愛らしい髪飾り。
「うわぁ可愛い…これ、どうして?」
突然の事に目をまん丸に開いて何度も瞬かせながら知盛と髪飾りを見比べる。
誰かに物をあげるなんて、そんなことめんどさがってやらなそうな知盛が一体どうしたんだろう?
「…この間の詫びだ。お前に、やる」
「え、あ、ありがとう、ございます」
耳まで赤く染めながらシドロモドロで礼を言うに、知盛は満足そうに表情を緩めた。
「…っ」
いつも気だるそうな彼の、初めて見せる柔らかい表情。
至近距離で見たは何故か心臓の動機が速まるのを感じた。
散りゆく桜の花に寂しさを感じていたはずなのに、ほんのりと心が温かくなる。
気持の変化がすごく不思議だった。
こんな気持ちは初めてで…
でも、不快じゃなかった。むしろ、心地よいくらい。
「どうした?」
ゆっくりと頬に触れる知盛の指先にはくすぐったそうに目を細める。
多分、今、自分の顔はどうしようもないくらい赤くなっているだろう。
「…ねえ、知盛さん」
「何だ?」
「今度は、一緒に桜を見に行こうね」
「…ああ」
知盛の答えを聞いては満面の笑みを浮かべた。
(来年、来年は一緒に見れるといいな)
優しい笑みを浮かべて自分の頬を覆う知盛の手にそっと触れてみる。
父親以外の男性の手、大きくて骨ばっているけど彼の手はとても温かい。
きっと自分はこの手を、このぬくもりに安堵しているんだ、と感じた。
「ーっ…」
― ドクンッ ―
口を開こうとした時、急に強く心臓が痛いくらいに脈打つ。
激しく脈打つ心臓に、の笑みが凍りついていった。